情緒の詩に対峙するものとして、存在の詩を私は主張しつづけてきた。 この国では、詩とは感情、情念、心情の伝達手段であり、作者も読み手も詩をとおしてそこに共有の心情世界を持つことで満足する傾向が強い。...
西 一知詩論エッセイ · 29日 11月 2023
”フォルム(形)は精神の同位元素である”といったのは、今世紀初めのある前衛作家である。...
詩と普遍性については前にも書いたが、この問題はいろいろな角度から何度繰り返して考えてみてもいいと思う。 先ず、詩の普遍性はどこにあるか、ということである。 端的にいって、それは、なるべく多くの人に分かりやすく読まれること、というようなところに簡単にあるのではない。 平明な詩すなわち普遍的な詩、とは簡単にはいえない。...
詩は、おそらく何ものかへの<おそれ>が書かせるものであるに違いない。 すでに分かっているもの、了解ずみのものを書いてもはじまらない。作者にとって退屈なものが、どうして読者に新鮮でり得よう。 未知を前にしたわななきが読者をとらえる。そのためには、作者の感性はまだ文字が書き込まれるまえの白紙のような状態でなければならぬ。...
何を、どう読むか、にすべてはかかっている。それは<詩>ばかりではない。人の生も同じである。 かりに、あなたが身の不遇を嘆こうと、幸せを感じようと、それは、あなたの生の読み方いかんによるものだ。...
西 一知詩論エッセイ · 05日 12月 2022
「舟」は創刊の一九七五年、その発足の覚え書に次のように記した。...
ある作品を観るということは、ひとつの小宇宙に参画するということである。これは、あなたが何らかの観念にとらわれている限り困難なことである。...
あらゆる芸術作品において重要なものは、その作品が作られる以前にある。ということは、作品に着手してから良い作品を作ろうとしてもそれはムリだということで、作品は制作以前にすでに決まっている、ということである。 これは、作品は作者と切り離して考えることはできない、ということを意味する。...
遠いところに飢えた子供たちがいる。文学はその子供たちに何ができるか? 30年ほど前、この問いはヨーロッパの作家たちによって投げかけられ、私の心にも深くささったことがある。...
西 一知詩論エッセイ · 29日 12月 2021
遠くへ達するために書く、というのは、詩人にとっておそらく間違ってはいまい。 ジェイムス・ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』の主人公が、最後の方のページでつぶやく“われに百万遍の経験をたまえ”というのも、詩人がより遠くへ達するための希求にほかならない、といえよう。...