わたしははじめそれが馬に見えた それが二重のふくらみを持ち赤紅色の壁のうえに 明かりがシミを浮きだたせ 箱や花瓶の鋭いかげや細長いかげを投げかけ シミの一部分はこのかげにのみ込まれ そこは頭部 壁紙のたるんだ部分は胴体 それはものすごく長くいびつ 胴体の暗い部分にジンギスカン帝のかぶとのようなものが見える...
それは朝、微細なものの呼吸するとき、大いなるアンニュイのはじまるときである。もやのなかからしだいに浮かび上る巨大なビルの群れは、紫や黄や真珠色の壁から、神秘な放浪と眠りをしたたらす。大地はもうもうと水分をはきつづける。夜と星は、樹木がふりあげたこぶしのなかへと殺到する。...
ある雨あがりの朝、わたしは通勤者の群れにまじって神保町の舗道を歩いていた。空気は水蒸気をふくみ、日のあたった路面や、木立や、屋根からは白い湯気がのぼっていた。交差点の近くまできたとき、わたしは、道ばたに積まれた切り石に腰をおろしている年老いたひとりの男を見た。男は、ふかい静寂に包まれていた。静寂のなかで、なにかをじっと見つめているというふうだった。わたしは、立ちどまって声をかけた。どうしてもそのまま行き過ぎることができなかったのだ。 ——もしもし、こんなさわがしいところでなにをなさっていらっしゃるのですか。 ——わたしか、 ゆっくりと、澄んだしずかな声で老人はいった。 ——海を見ているのだ。 わたしは驚いて、自分の耳を疑った。 ——なんですって? こんな町角から、どうして海が見えるんですか。 すると、老人は同じことばをもう一度強く、ゆっくりいった。 ——わたしは海を見ている。なぜ、きみはそれを疑うのか。疑うまえに、なぜ見ようとしないのか。 わたしは黙って老人を見つめた。急に、町のひびきが遠のくように思えた。老人はこの町角で、まるで渚にいるもののように坐っていた。足早に通り過ぎていく人びとや、走る車が影絵のように感じられた。 ——では、わたしにも海を見ることができますか? わたしは思いきってたずねてみた。 ——むろんのこと。人はだれでも、ものを見得る天与の資質をもっている。なにものにも妨げられぬ大きな視力を与えられているのだ。ものを見ることを妨げているのは、自分よりほかにない。幼児や、睡眠中の人と同じように、きみもみずからの小さな世界と、自己の意志をはなれて、きみのなかに働く大いなるものにたちかえるべきだ。それは、きみと、わたしたちと、この宇宙をひたす根源的な意志だ。それは、きみを生んだもの、わたしを生んだものだ。きみは、ついにきみを生んだものと合致するだろう。そのとき、きみはこの世界の豊かさをはじめてまのあたりに見るだろう。 ひとつの空間がわたしと老人を支配しているように思えた。ふかい静けさのなかに老人の声だけがひびいていた。 ——顔をあげて、見よ。なにものも疑わぬきみの天性が、きみを自分から解放したのだ。 わたしは顔をあげて見た。わたしのまえにあるのはいちめんの乳白色の世界であった。乳白色の、まだひとつに溶けあったままの海と、空。空気は軽やかに動いていた。それは、なんと広大な海。海は、わたしが見ている間にどんどん変わっていった。わたしはいましがたそこから生まれたもののような気がした。空気は、海の香を吸い、太陽がそれをあたためていた。海は、すべての鉱物からできていて幾千万の夢をはぐくんでいた。 老人は、肩もあらわな姿で坐っていた。わたしはたずねた。 ——あの夢の気泡はどうなるのですか? ——夢はそれぞれにある生命の種子を宿している。あるものは蛇に、あるものは人間に、あるものは山羊にというぐあいだ。わたしたちの生命は夢の結果にしか過ぎない。生命は夢のあらわれだ。わたしたちはそれぞれの夢を生きているのだ。 ——では、夢は? と、わたしはさらにたずねないではいられなかった。 ——夢は、大いなる闇から生まれる。それは、何億光年かなたの暗黒星雲よりまださきの闇かもしれない。わたしたちの生命は、その闇をひたす大いなる意志と合致するものなのだ。きみは無限にきみ自身へかえれ。それが世界へ到る道だ……。 暑かった。太陽は、すでに高かった。わたしは額ににじんだ汗をぬぐいながら、須田町から秋葉原の雑踏のほうへと曲がっていった。
目はおそらく巨大なものだ 眼球は脳髄へ通じそれは身体諸器官へ 開かれた目はきみを世界の事物のほうへ 事物の顔へ 恐怖へ やさしさへ 恍惚へ きみ自身にきみを向かわせる 目はおそらく巨大なものだ 眼球はきみを吸い込む深淵 それは身体の外へ露出したおそらく唯一の肉の部分 傷つき引き裂かれた肉も(それが 生きつづけているかぎり)無数の目を持つ...
西 一知詩論エッセイ · 04日 12月 2024
「舟」今号は、エルンスト・バルラッハ研究の本邦第一人者宮下啓三氏よりバルラッハに関するすばらしい原稿をいただくことができたことに、深く感謝したい。バルラッハの彫刻をとおして、じつに鮮やかに、直截に芸術の本質に迫っておられるこのように明快な文章は、近来稀であるように思われる。 とりわけ、私が注目したのは文中つぎの箇所である。...
水滴のさまを描け だがことばではなく カンバスのうえにではなく おまえのこころに ひびのはいった壁のうえに 樹木や 建物や さまざまな人物がいる風景のうえに ひとしずくの水が落ちるさまを描け おまえの手をかすな たとえ そこにどんなシミがあろうと じゃまものがあろうと 灼けていようと 冷たかろうと 凹凸があろうと そこにいま...
暗闇のなかに幾筋かの道が見える。ふかい憂愁と疑惑に包まれてぼくはたたずんでいる。道は、どこからともなく落ちてくる光に照らし出されている。それは太くなったり、細くなったり、曲がったりしながら、そのはては暗黒にのまれている。...
男は花束を持ったまま どこにいったらいいのかわからなかった 男が 花束を持ったままいつまでも困っていると 雲が降りてきて 男をかくすのだった だが 雲はけっして意地悪とはいえない それは雲のつとめだから 男は いまでもその花束をささげ持っている いつまでも そのまま わたしたちが見たものは永遠だった わたしたちが聞いたものは永遠だった...
あの空の高みにひとりの頭のおおきな子どもが眠っているのが見えるかね。...
一九四八年、十九歳の夏、私は東京・馬込の北園克衛氏宅を訪問した。私の初上京の目的は北園氏に会うこと、それだけだった。私より十歳ほど年長の先客があったが、私は文学の疑問点を洗いざらい北園氏にぶつけた。北園氏はにこやかに、実に丁寧に応えてくれた。年長、年下の区別は全くなく、文学に関しては完全に対等に接してくださった。そのうち先客の人が田舎者の私に東京の詩壇状況の話をはじめたところ、北園氏は急にきびしい顔になっていわれた。 ”きみ、ぼくたちは文学の話をしてるんだ。ヤオヤの話は止めたまえ” (東京にも、本物の詩人はいるんだな)と、私は思った。高知から汽車の煤煙に汚れ、三十時間もかけて東京まで来た甲斐があった、と思った。と同時に、北園氏の仕事から私は目をはなしてはいけない、と思った。また、私は北園芸術の後を追うのでなく、私自身をそこからつかみ取らなければならない、とひそかに決心した。 多くの話をしたが、ほとんど違和感はなく、すべて私が考えていたことと同じであったような安堵感が残っている。当時の高知では、北園克衛に関心ある人は皆無だった。三年前の大空爆と、二年前の南海大地震で潰滅状態の高知市で、いったいどのようにして手に入れたのか自分でも思い出せないのだが、私はこの訪問までに北園克衛の詩と、詩や芸術に関する文章はほとんど読んでいた。シュルレアリスムと抽象芸術、それらへの関心が私を駆り立てて足を運ばせることになったのである。 話の具体的内容は違和感がなかったが故に忘れたのだろうと思うが、ただ次の二点は当時の私の思い及ばなかったこと故か鮮明に記憶に残っている。一つは次のことである。 ”きみは高知だけど、乾直惠を知ってますか” ”知りません。高知出身の詩人ですか” ”そう、高知にはいませんけどね” 乾直惠についての会話はただこれだけで、私はその名は長く忘れていた。高知出身、高知在住の詩人からもその名を聞くことは皆無に近かった。それから三十年ほどを経て東京で付き合っていた同人誌「時間と空間」の上田周二氏に、ある日、 ”あなたは高知出身だけど、この人知ってますか” と、一冊のぶ厚い本を手渡された。『詩人 乾直惠ー詩と青春』上田周二著(潮流社 一九八二年刊 三八〇〇円)。私は愕然とした。 ”知りません。が、ショックですね。これでは高知の詩人は形無しですよ” 私はこのとき乾直惠が「椎の木」同人で「詩と詩論」や「四季」とも関係があったことを初めて知った。北園氏の顔が頭に浮かび、あのときもう一歩私が突っ込んで質問していたら、私は間違いなくその足で乾直惠を訪ねることになっていただろうに、と悔まれた。乾直惠の死は一九五八年一月、私の上京はその年の八月だから完全に会う機会を逸している。 乾直惠でもう一つぜひ触れておきたいことは、高知在住詩人で故人となられた立仙啓一氏が、私が二十代初めの頃、 ”高知出身で非常にいい詩人が東京にいるよ” と語ってくれたのが、いま考えると乾直惠のような気がする。立仙氏は当時からつねに酔っぱらっていたが、頭は繊細で、鋭く、シャイだった。立仙氏は東京外語の学生時代にすでにいい詩を書いていたらしいが、私の想像では当時立仙氏は乾直惠にあっていたのではないか、という気がする。石原吉郎氏が亡くなる一年ほど前、私にこう語ってくれたことがある。 ”立仙啓一のことを東京で話できるって夢みたいだな。彼は東京外語のぼくの先輩で、ぼくなど太刀打ちできないすばらしい詩を書いてたよ。どうしてるだろうな” ”ぼくももう何十年も会ってませんが、ますます酒仙のようですよ。詩もみませんが、書かなくてもあの人は詩人ですよ” ”実に、よくわかるなぁ、彼が飲むのも” これが石原吉郎氏との最後の会話になった。 話を初めにもどそう。北園氏のいまーつの言葉は、 ”地方在住の詩人はよく勉強はしてるが、言葉が硬く、古い。詩は言葉だ。それから、詩は何でもないものだよ” ということ。多くの詩人は、詩に多くを期待し、多くを持ち込もうとするので、肝心の詩が失われてしまう、ともいわれた。立派な文章でも詩ではないものもあるね、ともいわれた。 後年、黒田三郎氏にはよくお会いしたが、黒田氏も、”そう、ぽくがゾノさん(北園氏周辺の人、白石かずこ氏らも北園先生とはいわず、こう呼んでいた)を訪ねたのも十九歳のときだったよ” と、いわれた。私はそのことについて立ち入っては聞かなかったが、黒田三郎の平明な詩風の発端はおそらく北園克衛の右の言葉にあったにちがいない、という気がした。鹿児島から上京した黒田青年にも、高知から上京した私にも、北園氏はおなじ右の言葉を語っていたにちがいない、と思うからである。 乾直惠のことは失念していたが、”詩は何でもないもの”、この恐るべき言葉は、いまだに私の頭に焼き付いて離れない。乾直惠のことは、これからである。 ——「詩についての断片」19(1993.3.1「舟」70号)