ある雨あがりの朝、わたしは通勤者の群れにまじって神保町の舗道を歩いていた。空気は水蒸気をふくみ、日のあたった路面や、木立や、屋根からは白い湯気がのぼっていた。交差点の近くまできたとき、わたしは、道ばたに積まれた切り石に腰をおろしている年老いたひとりの男を見た。男は、ふかい静寂に包まれていた。静寂のなかで、なにかをじっと見つめているというふうだった。わたしは、立ちどまって声をかけた。どうしてもそのまま行き過ぎることができなかったのだ。
——もしもし、こんなさわがしいところでなにをなさっていらっしゃるのですか。
——わたしか、
ゆっくりと、澄んだしずかな声で老人はいった。
——海を見ているのだ。
わたしは驚いて、自分の耳を疑った。
——なんですって? こんな町角から、どうして海が見えるんですか。
すると、老人は同じことばをもう一度強く、ゆっくりいった。
——わたしは海を見ている。なぜ、きみはそれを疑うのか。疑うまえに、なぜ見ようとしないのか。
わたしは黙って老人を見つめた。急に、町のひびきが遠のくように思えた。老人はこの町角で、まるで渚にいるもののように坐っていた。足早に通り過ぎていく人びとや、走る車が影絵のように感じられた。
——では、わたしにも海を見ることができますか?
わたしは思いきってたずねてみた。
——むろんのこと。人はだれでも、ものを見得る天与の資質をもっている。なにものにも妨げられぬ大きな視力を与えられているのだ。ものを見ることを妨げているのは、自分よりほかにない。幼児や、睡眠中の人と同じように、きみもみずからの小さな世界と、自己の意志をはなれて、きみのなかに働く大いなるものにたちかえるべきだ。それは、きみと、わたしたちと、この宇宙をひたす根源的な意志だ。それは、きみを生んだもの、わたしを生んだものだ。きみは、ついにきみを生んだものと合致するだろう。そのとき、きみはこの世界の豊かさをはじめてまのあたりに見るだろう。
ひとつの空間がわたしと老人を支配しているように思えた。ふかい静けさのなかに老人の声だけがひびいていた。
——顔をあげて、見よ。なにものも疑わぬきみの天性が、きみを自分から解放したのだ。
わたしは顔をあげて見た。わたしのまえにあるのはいちめんの乳白色の世界であった。乳白色の、まだひとつに溶けあったままの海と、空。空気は軽やかに動いていた。それは、なんと広大な海。海は、わたしが見ている間にどんどん変わっていった。わたしはいましがたそこから生まれたもののような気がした。空気は、海の香を吸い、太陽がそれをあたためていた。海は、すべての鉱物からできていて幾千万の夢をはぐくんでいた。
老人は、肩もあらわな姿で坐っていた。わたしはたずねた。
——あの夢の気泡はどうなるのですか?
——夢はそれぞれにある生命の種子を宿している。あるものは蛇に、あるものは人間に、あるものは山羊にというぐあいだ。わたしたちの生命は夢の結果にしか過ぎない。生命は夢のあらわれだ。わたしたちはそれぞれの夢を生きているのだ。
——では、夢は?
と、わたしはさらにたずねないではいられなかった。
——夢は、大いなる闇から生まれる。それは、何億光年かなたの暗黒星雲よりまださきの闇かもしれない。わたしたちの生命は、その闇をひたす大いなる意志と合致するものなのだ。きみは無限にきみ自身へかえれ。それが世界へ到る道だ……。
暑かった。太陽は、すでに高かった。わたしは額ににじんだ汗をぬぐいながら、須田町から秋葉原の雑踏のほうへと曲がっていった。