「舟」今号は、エルンスト・バルラッハ研究の本邦第一人者宮下啓三氏よりバルラッハに関するすばらしい原稿をいただくことができたことに、深く感謝したい。バルラッハの彫刻をとおして、じつに鮮やかに、直截に芸術の本質に迫っておられるこのように明快な文章は、近来稀であるように思われる。
とりわけ、私が注目したのは文中つぎの箇所である。
「詩は彫刻である。詩は絵画である。あるいは、彫刻や絵画は詩そのものである。」
氏はこの言葉に対して「肯定的で積極的な反応を期待」したいといわれ、さらには、それへの「答が『舟』に運ばれて来ることを期待」すると付け加えられる。
詩と芸術に関する根源的問題が、真っ向から、真剣にここで問われているのである。しかも、氏は、
「いったい詩とは何であるのか、……この興味深い疑問を、どうか詩人たちに解いていただきたい」
ともいっておられる。
私は氏の提言を、単なる知の問題ではなく、詩人の存立の根っ子の問題として考えたい。
詩とは、単に原稿紙のマス目をうまく埋める言葉の技術の所産である、というふうに私は考えない。言葉の技術から詩が生まれることはないのである。
人間は身ぶりや言葉、形象や音などを使って自分を表現するが、それらの素材に向かう以前に表現者はすでに何らかの表現すべきものを自分のうちに持っていなければならない。すなわち、表現方法以前に表現内容がなければならないのである。
内容は方法に先立ち、方法は内容に規制される。あらゆる表現において、私はこの関係を重視する。
表現方法、すなわちテクニックのみを切り離して、何らかのスタンダードな表現方法が表現者に先行して存在すると思うのは、真の芸術を解さないものの考え方である。
この意味で、私は最初の表現衝動、表現の動機を注視する。何ものがその人を突き動かし、表現へ駆り立てたか、ということを、である。
言葉を換えていえば、そこにある人間を私はみつめる。
作品すなわち表現されたものに私がみるものは、単なる表現技術ではなく、それを生んだ人間の全体である。
言葉を換えていえば、作品にみるものは作品以前なのである。
重要なものは、作品以前であり、作家にとっては作品以前こそがすべてのはずである。作品以前、すなわち人間がすべてである。
詩は、原稿紙のマス目よりも先に、まず人間のなかになければならない。
詩は、すなわち作品以前に作者のなかに存在しなければならないのである。
あなたは詩を書くよりも前にまず詩人でなければならない。そうでなければ絶対に詩は書けないだろう。
木や石、線や色、音、身ぶり、言葉、何を用いても詩は表現できる。詩人が表したものは、すべて詩である。
逆に、詩を持たない人が表したものは、いかに詩らしくみえようとそれは詩ではない。詩の形で書かれたものに必ずしも市があるわけではない。
一つの彫像、一枚の画、一本の笛の音に感動するのは、そこに人間がいるからであり、詩があるからである。
詩とは何であろうか。私はそれを特別な能力を持った人にのみ与えられたものとは思わない。詩は本来、すべての人に与えられたものである、と私は思う。
端的にいえば、幼いときすべての人は詩人であったはずである、とこのような言い方もできよう。
E・A・ポオは、詩をおどろきであるといい、 G・アポリネールは、詩を発見であるといった。
因襲や、常織や、さまざまな観念のなかで、いわゆる大人たちは詩をつぶされていったのだともいえよう。だが、それでもかすかな痕跡ぐらいは誰のなかにも残っていよう。ーつの彫像を前にみずからのナイーヴな感性を開いて立てば、自身をとり戻せるかもしれない。芸術は存在の泉である。
バルラッハは、存在の仮面を剥ぎとった。「舟」前号紹介のまど・みちおという人は、たったいま生まれてきた人のようなまなざしでこの世をみつめる。何ものもその目をごまかすことはできない。このような人たちこそ、真の詩人であろう。
作品は、何らかの観念や情緒を伝達するための手段であるのではなく、ただそこに存在するだけでいいものであろう。作家はさまざまな虚偽のベールに覆われた存在をあらわにする。
作品、それは発見された現実である。それ以上の何ものもそこには必要でない。バルラッハは詩人である。その作品はバルラッハの存在の証である。バルラッハの作品を前にその心臓の鼓動に耳を傾けようではないか。ただそれだけでいい、さまざまな芸術作品を前にして、と私は思う。
——「詩についての断片」20(1993.4「舟」71号)
ーつの彫像、一枚の画、一本の笛の音に感動するのは、