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"詩は何でもないもの"——北園克衛との出会い

 一九四八年、十九歳の夏、私は東京・馬込の北園克衛氏宅を訪問した。私の初上京の目的は北園氏に会うこと、それだけだった。私より十歳ほど年長の先客があったが、私は文学の疑問点を洗いざらい北園氏にぶつけた。北園氏はにこやかに、実に丁寧に応えてくれた。年長、年下の区別は全くなく、文学に関しては完全に対等に接してくださった。そのうち先客の人が田舎者の私に東京の詩壇状況の話をはじめたところ、北園氏は急にきびしい顔になっていわれた。

 ”きみ、ぼくたちは文学の話をしてるんだ。ヤオヤの話は止めたまえ”

 (東京にも、本物の詩人はいるんだな)と、私は思った。高知から汽車の煤煙に汚れ、三十時間もかけて東京まで来た甲斐があった、と思った。と同時に、北園氏の仕事から私は目をはなしてはいけない、と思った。また、私は北園芸術の後を追うのでなく、私自身をそこからつかみ取らなければならない、とひそかに決心した。

 多くの話をしたが、ほとんど違和感はなく、すべて私が考えていたことと同じであったような安堵感が残っている。当時の高知では、北園克衛に関心ある人は皆無だった。三年前の大空爆と、二年前の南海大地震で潰滅状態の高知市で、いったいどのようにして手に入れたのか自分でも思い出せないのだが、私はこの訪問までに北園克衛の詩と、詩や芸術に関する文章はほとんど読んでいた。シュルレアリスムと抽象芸術、それらへの関心が私を駆り立てて足を運ばせることになったのである。

 話の具体的内容は違和感がなかったが故に忘れたのだろうと思うが、ただ次の二点は当時の私の思い及ばなかったこと故か鮮明に記憶に残っている。一つは次のことである。

 ”きみは高知だけど、乾直惠を知ってますか”

 ”知りません。高知出身の詩人ですか”

 ”そう、高知にはいませんけどね”

 乾直惠についての会話はただこれだけで、私はその名は長く忘れていた。高知出身、高知在住の詩人からもその名を聞くことは皆無に近かった。それから三十年ほどを経て東京で付き合っていた同人誌「時間と空間」の上田周二氏に、ある日、

 ”あなたは高知出身だけど、この人知ってますか”

と、一冊のぶ厚い本を手渡された。『詩人 乾直惠ー詩と青春』上田周二著(潮流社 一九八二年刊 三八〇〇円)。私は愕然とした。

 ”知りません。が、ショックですね。これでは高知の詩人は形無しですよ”

 私はこのとき乾直惠が「椎の木」同人で「詩と詩論」や「四季」とも関係があったことを初めて知った。北園氏の顔が頭に浮かび、あのときもう一歩私が突っ込んで質問していたら、私は間違いなくその足で乾直惠を訪ねることになっていただろうに、と悔まれた。乾直惠の死は一九五八年一月、私の上京はその年の八月だから完全に会う機会を逸している。

 乾直惠でもう一つぜひ触れておきたいことは、高知在住詩人で故人となられた立仙啓一氏が、私が二十代初めの頃、

 ”高知出身で非常にいい詩人が東京にいるよ”

と語ってくれたのが、いま考えると乾直惠のような気がする。立仙氏は当時からつねに酔っぱらっていたが、頭は繊細で、鋭く、シャイだった。立仙氏は東京外語の学生時代にすでにいい詩を書いていたらしいが、私の想像では当時立仙氏は乾直惠にあっていたのではないか、という気がする。石原吉郎氏が亡くなる一年ほど前、私にこう語ってくれたことがある。

 ”立仙啓一のことを東京で話できるって夢みたいだな。彼は東京外語のぼくの先輩で、ぼくなど太刀打ちできないすばらしい詩を書いてたよ。どうしてるだろうな”

 ”ぼくももう何十年も会ってませんが、ますます酒仙のようですよ。詩もみませんが、書かなくてもあの人は詩人ですよ”

 ”実に、よくわかるなぁ、彼が飲むのも”

 これが石原吉郎氏との最後の会話になった。

 話を初めにもどそう。北園氏のいまーつの言葉は、

 ”地方在住の詩人はよく勉強はしてるが、言葉が硬く、古い。詩は言葉だ。それから、詩は何でもないものだよ”

ということ。多くの詩人は、詩に多くを期待し、多くを持ち込もうとするので、肝心の詩が失われてしまう、ともいわれた。立派な文章でも詩ではないものもあるね、ともいわれた。

 後年、黒田三郎氏にはよくお会いしたが、黒田氏も、”そう、ぽくがゾノさん(北園氏周辺の人、白石かずこ氏らも北園先生とはいわず、こう呼んでいた)を訪ねたのも十九歳のときだったよ”

と、いわれた。私はそのことについて立ち入っては聞かなかったが、黒田三郎の平明な詩風の発端はおそらく北園克衛の右の言葉にあったにちがいない、という気がした。鹿児島から上京した黒田青年にも、高知から上京した私にも、北園氏はおなじ右の言葉を語っていたにちがいない、と思うからである。

 乾直惠のことは失念していたが、”詩は何でもないもの”、この恐るべき言葉は、いまだに私の頭に焼き付いて離れない。乾直惠のことは、これからである。

 

——「詩についての断片」19(1993.3.1「舟」70号)