あの空の高みにひとりの頭のおおきな子どもが眠っているのが見えるかね。
むろん、わずかないちべつぐらいで見えるわけはないが、そうかといってむきになって探してもむだだ。眠る子どものおおきな頭はきみのきまぐれや、きみひとりの意志のちからで見つけられるものではない。それはおそらく、きみのなかにあってきみ自身さえ気づかぬなにかもっとおおきなちから(それをぼくは、ぼくらにおける必然性と呼びたい)によるものだ。
あの青い空は幾重もの層になっているね。
まず、いちばん表面の層をいえばそれは鳥を飛ばせたり、雲をただよわせたり、夕焼けを見せたりする層だ。それからつぎは濃い青をたたえた沈黙の層だ。ここまではいかなる烏も飛ばない。ぼくらの意識と光だけが通過する層だ。それからうえの層はもうぼくらの意識もとどかない。なにか別種のものの意識(ぼくは、それをもあえて意識と呼ばう)が充満する世界である。もしかりに、ぼくらがこの世界へはいっていったとしてみよう。するとぼくらは、なにか強大なもののちからで肉も骨もばらばらにされてしまうだろう。
だが、それにもかかわらずひとははいっていく。幾重にも重なるこの空の深奥部までぼくらが見るのはなにによってか。それは少なくともぼくらの意識によってではない。プロチノスによれば、見るためには目がまず見る対象に似なければならない。されば、ぼくの目は空に似ることにはじまったのだ。だが、ここにはぼくの意識は参与していない。空が、ぼくの目を侵蝕しはじめたとでもいっておこうか。ぼくが空のほうへ近づいたのか、空がぼくのほうに近づいたのか、それとも両方がいっぺんに起こったのか、ぼくにはいずれともいいがたかった。
ここに、ひとりの男がいるのを見よ。かれの生活には少しの統一も一貫性もなかった。かれは、まるで眠りながら運ばれるもののようだ。時間、場所、人間、さまざまな事物、さまざまなできごとにかこまれ、惑乱し昏睡していた。その襤褸。おお、かれが歩いていく、光のなかを…。ぼくらの感覚は、いったいどこからやってくるのか。感覚は、ぼくらが属する、ぼくらにとって避けようもない唯一のものなのだが。このことはまた、ぼくらがどこへいっていいのかわからぬ根元的理由でもある。ぼくらはなにものとも知れぬものを生きていた。ぼくらは、いまだ母親の胎内にいる胎児のごときであった。
変容はまったく予期しない突然のできごとである。きみはそれをくいとめることができない。なぜなら、きみはなにも知らされていないからだ。なぜなら、きみは所有するものではなくて、所有されたものだからだ。空は、きみの意志に関係なく現われるだろう。きみはある日、どことも知れぬ土地のどことも知れぬ場所でふいに胸がしめつけられるような感じに襲われるだろう。あらしのような激しさで空の表層がはげ落ちる。きみは深い紺青の空へはいったのだ(それは見るということばでは表現できない)。きみは自分が失われたと思う。同時に、自分のなかで別種のものの意識と感覚が生まれ、広がっていくのを感じるだろう。
あの空の高みにひとりの頭のおおきな子どもが眠っているのが見えるかね。