想像力の翼は、人間を現実から引き離すものだろうか?
私は、その逆であるといいたい。
鳥や獣たちは現実の一部を占め、その構成要素だが、人間は想像力によって現実参加が可能となる、という言い方はおかしいだろうか? もちろん、人間とて百姓仕事に精出しているときや、眠っているときなどは、現実の一部分であり、その構成要素にすぎない。たとえば眠っているとき、人間は現実を知っており、参加しているとはいえないだろうからである。
人間からも、事物からも独立した、純粋想像力の世界というものがあるだろうか? 詩や、芸術は、そのようなものの証だろうか? 私は、否といいたい。
では、想像力の翼といえども、現実に縛られ、不自由であるのだろうか。何ものにも拘束されない自由な想像力というものはあり得ないだろうか? 私は、あるといいたい。
想像力は自由だからこそ、人はそれによって現実を発見し、参入できるのである。
想像力の自由、人間のあらゆる能力のなかでの想像力の絶対優位を、私はあらゆる機会に主張したい。
私は、想像力あるがゆえに人間を讃えたい。なぜなら、想像力こそ人間の硬化した観念をうち砕き、人間を蘇生させる源泉といえるからである。
人間は、事物の赤裸な貌を怖れる。つねに怖れてきた。そして、人間は、人間による人間のための王国を築こうとして失敗を重ねてきた。想像力は、そのたびに人間を事物の世界に連れもどし、人間の本来あるべき姿=現実を再発見させてくれた。
想像力が人間を破滅から救ってきたのである。人類がもし滅亡するとしたら、それは他でもなく想像力の衰弱によってであろう。
豊かな想像力を人間が有しているあいだは、人類は決して滅びることはないだろう。
想像力は、現実と対立するものではない。
想像力と対立するものは観念である。固定化し、硬化したあらゆる観念、因襲、制度である。
想像力は、現実の再発見へと向かう。
美術も、音楽も、文学も、演劇も、それらは新しく発見された現実の証でなければならない。それらは、そのプロセスにおいて、必然的に古い硬化した観念と闘うことになるだろう。
かつてみずからを前衛の立場に置いた大岡信氏がある時期“私はこれから後衛の立場をとりたい”と表明したが、歴史上のあらゆる時期、残ったのはつねにその時代の前衛で、後衛は消え去っているのである。芸術はまさに生命活動だからである。
新しい現実発見は、必ず新しい表現技法をともなうものである。古い皮袋に新しい文学、芸術を入れることはできない。
新しい現実発見とは、新しい自己発見でもある。
自己革新、自己破壊、自己蘇生なくして、新しい現実発見はあり得ない。新しい文学、芸術はあり得ない。自由な想像力こそこの源である。
政治も、教育も、文化も、想像力が枯渇したとき、それは最悪となる。いまは、どのような時代だろうか? 情報操作によって人間の顔がいっせいに同じ方を向き、同じ方に駆け出す、この画一化ほど恐ろしいものがあるだろうか?
詩人の存在がもし重要であるとするならば、それは詩人が自由な想像力の担い手であるということ、この限りにおいてであるということができよう。
リベラルであること、硬化したさまざまな観念から自由であること、つねに変貌を止めないこと、フレッシュであること、これが詩人の条件であるだろう。
ところで、私がつねづねこういうことをいうと、“西は伝統の否定者、モダニストだ”といわれることがある。だが、そんなことはない。古典は、右のような生き方をよく私に教えてくれるし、私に勇気を与えてくれる。古典なくして私はあり得ないのである。
たとえば、“いま眼前にある現実を描け”という人がいる。だが、現実とは自己が投影されたものである。所詮、描かれたものは自己にしかすぎない。しかも、それは真の自己ではなくおおむね借り物の硬化した観念の投影にしかすぎないことが多い。私はそのようなものを、たとえいかに精緻に描かれていようと、詩とか芸術とは認めがたい。そうではなくて、そこにほんのわずかでも発見があれば、発見に対するおののきがあれば、私はそれを詩と讃えたい。観念ではなく、白紙の感性こそ詩人のものである。だがしかし、そのような感性によって捉えられたものは、文学に精通した人の目には、幼稚、稚拙、ナンセンスと映ることも多いようである。このあたりに、真の詩や芸術を見抜くことのむずかしさがあるように思う。見る側の頭に硬化した観念がつまっている場合はもう論外である。
眼前にある現実を描くまえに、まず自己が裸になることである。そうでなければ、決して現実は現れてこないだろう。
頭の固い人、傲岸不遜の人は、詩や芸術に向かない。詩は限りなくナイーヴで、謙虚な人のものであるからだ。詩や芸術に長くかかわっているうちに、それを失った人は悲惨である。
現実は、自己に固執している人の前には現れない。
また、現実は一瞬のうちにある。今日垣間見た現実が明日にそのまま永続することはない。自己に固執することのない人の前には、つねに新しい発見があるだろう。
この意味からして、 <現実主義>ということばを私は信用しない。発見をともなわない現実論者は単なる観念の人だからだ。
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作家にはニ種類あるかもしれない。座している作家と、翔び立つ作家と。つねにここに居る作家と、居ない作家と。
観念と因襲と、制度に安住する作家と、そこから翔び立つ作家と。あなたはどちらに属するだろうか? 私が作品を前にして問いたいことは、この一事である。
発見があるか、ないか、現実があるか、ないか、この一事である。詩は、生の証である。生はヴィヴィッドである。
クリエイトとは何か? それは一言でいえば自己発見である。
自己発見とは何か? 逆説めくかもしれぬが、窮極的にはそれは自己不在への覚醒である、といういい方ができよう。自己はいない。ただし、自己はあまねく存在する。一枚の木の葉にも、一滴の露にも、夜明けの光のなかにも、である。
雲のへりを歩く自分がいる そしてやがて
雲とともに消滅する自分がいる
雲とともに消滅した自分は、またどこか新しい場所に生まれているであろう。
ここにはほとんどいかなる思想もない。刻々よみがえる何かがあるだけである。思想はその中に醸成される。
自己とは何か? この刻々変貌するもののうちにある何か、それを私は自己といいたいし、そこをはなれて不変の自己というようなものはない、と私は思っている。
――「詩についての断片」18(1992.10「舟」69号)