· 

動く夜

「なんで?」

「どうして?」

「そのうち、わかるよ」

「いっちゃ、だめなの」

「じゃ、いいや」

「おんなじことだからな」

「いわなくたって」

「帰るよ」

「つまんない」

「つまんなきゃ、立ってろよ」

 男の子が帰った。女の子たちはためらったが、すぐその後を追いかけた。しかし、ぼくは見なかった。ぼくは、男の子も女の子も、そしてまったくなにも見なかった。まっ暗なそらに、声だけが、とぎれとぎれに聞こえ、消えていった——。

 あれは、なんだろう? すると、こんどは耳もとで、ずっと間近にほとんどぼく自身の皮膜のうちで、とつぜん、「アルヒフム、ヌヒハ、ノモ、メ、ポピ」「グゴゴ、ギ、ゲギ、グゴゴ」「パピ、ルリ、ノム、ポ、ピピピ」という声がする。

 夜は毛が生えている! 夜は原色だ! そして、夜は目も鼻も口もないのっぺらぼうだ!

 気がつくと、ぼくはいつもの無人バス停留所に立っていた。そば屋も、魚屋も、設計事務所も、まわりの家はみんな戸をとざしている。いつの間にか霧のような雨が降りはじめていた。深い夜の底はどうなっているのか…。 と問うまでもなく、ふいに一台の自動車がぼくの前を走り去っていく。乗っているものの姿は見えない。そして、いまはもう、自動車の影さえ見えない。あれは、ぼくらの眠りのなかを疾駆する自動車だろうか? 鋭い悲鳴をあげながら少女の夢、赤んぼの夢、老人の夢、大工の夢などを切り裂き、どこまでも突っ走っていくあのまぼろしの自動車なのだろうか?

 闇は、おだやかでない! 闇は、熱い! 闇は、沸騰する! 闇は、数えきれない舌と、数えきれない筋肉と、数えきれない血管を持っている! ぼくらは、闇に封じ込められ、ヴォドー族のいけにえのように血だらけで歩いているにちがいない。

「帰ろうよ、たっちん」

「つめたあいジュースでも飲もう」

「お菓子もあるぜ」

 声は、ふいに中空でとぎれる。それからは、ぼくはもうむちゅうで歩いていた。

 家は黒ぐろとぎっしり寄り集まり、道の両側にどこまでも続いている。空き缶、濡れた新聞紙、ぼろきれ、食べものの腐ったにおい。そして、それぞれの家のなかには家具があって家具のあいだには人間が眠っている。それは、幸福とか不幸とかいうものとはなんの関係もなく、ただ黒ぐろと寄り集まり、闇のなかをどこかへ移動しようとしているが、繋ぎとめられ、動けないでいるがらくたの大集団だ。夜は、そのうえにさっとひと刷毛、血の色を塗る!

 ぼくは、いつの間にか線路づたいに歩いていた。夜は、どろどろに溶けていた。

「エ、オ、ア」

という声が聞こえる。

 シャツが、べっとりからだにまつわりつく。黒い工場群。暗黒のなかに眠る少女の黒い輝くはらわた。閉ざされた窓を、塀を、屋根をはいずりまわる白い繊毛のような夜の手。おお、そのときぼくの行く手の巨大な闇にぼんやり浮かんでいるひとつの顔。それはぼくの顔だろうか? ぼくはそれをじっと見つめて、立ちどまる…。夜が秘める鏡。夜がその内蔵からじかに吐き出す鉱物質の息は、樹木——とうせんだん、あけぼのすぎ、サイプレスらのすべての幹、葉に結晶する。夜のテーブル、夜のベッド、川、平原、傾いた家屋、それから、どこへも行き場のない人間ども…。いましもひとつの肉体がほろび、さみしい魂が夜の平原へとさまよい出る。

「ヨヒム、ポク、ルポ、クリリ」

「トトプ、トトプ、リリピ、ポ、リルリ」

 深い喉、鋭い声帯、夜は巨大なマフラーのように眠るひとりの父親のからだを締めつける。オーボエ、笙、ひちりき、アコーディオン、ピッコロ、パイプオルガンがいっせいに鳴りひびき、どよめき、貫くように、またごうごう吠えるように、その声は遠くから近くから湧き起こる。

 そのとき犬は判じもののように眠りこけていた。そのとき、線路はどこまでも続いていた。夜の階段を吹く風は、熱気をはらんでいた。眠る犬のかたわらをひしめくおびただしいものの影が通っていく——。

 死せるものも、生あるものもいずれもまだ生まれる以前にあったそのとき、母親の胎内では子どもが目を開く。子どもの目に見えるものはなにか。それこそまだぼくらが見たこともない真実の樹木、鳥ら。だが、そのときぼくは旋風にさらわれて見えなかった。ぼくは、どこにもいなかった。家並みが低く続いている。夜の鏡のなかにうつっているものは、暗黒の夜そのものだった。

 暗い鏡の奥にある、さらに暗い部分は、熱い血がたぎる夜の心臓なのだろうか? だれかが手をさしのべる。手は、はげしく夜の奥に向かってさしのべられている。