情緒の詩に対峙するものとして、存在の詩を私は主張しつづけてきた。
この国では、詩とは感情、情念、心情の伝達手段であり、作者も読み手も詩をとおしてそこに共有の心情世界を持つことで満足する傾向が強い。
こういう詩の世界では、詩とは読者を酔わすものであり、そのためのテクニックとして、感情の過大な増幅がはかられたり、ことさらな美化がほどこされたりされがちで、形容詞や副詞、比喩や暗喩などの修辞学がはばをきかすことになる。
だが、私は詩とはもっと単純なものであるといいたい。
詩とは詩人が見たものを何の虚飾もなく、単に示すだけのものであっていいのではないか、真裸の輝きが詩ではないのか、それを覆い隠すもろもろのテクニック、衣裳は虚偽であり、それはむしろ読者を真実の詩から遠ざけることになるのではないか、と私は考えるのである。
詩は存在するだけでいい。たとえば、あなたの眼前にいまあるグラスのように、である。
グラスはみずからを語ることはない。真の詩はただそこにあるだけでいい。何の註釈も、説明も必要とすることなく、太陽がただ孤独に光り輝いているように、静かにそこにあるだけでいいのではないだろうか。
詩はいっさいの衣裳をはぎ取り、真裸でただそこにあるだけでいい、といったが、そのような存在と詩はどのようにして得られるだろうか。
存在の詩は、あなたの目が開いたときに得られる。あなたの目が捉えたものを何の虚飾もなく、単純に示すだけで最良の詩が得られるだろう。
だが、見るということの困難さは、古来、プロティノスや十字架の聖ヨハネや老子や、詩人や画家、科学者や宗教家や哲学者らが多く語っている。見るということだけに関して万巻の書ができるだろうとも思われる。
私は、見るということについては、それを端的に発見と置きかえてもいいように思っている。
発見と驚き、このナゾの瞬間から詩が始まる。あなた自身の生が始まる。
発見は、さまざまな因襲や既成の観念からあなた自身の感性が脱却し、自由になったとき生まれる。
従って、発見は至るところにある。詩もまたそれに伴って至るところにある。
詩人とは、事物の本体を覆い隠すさまざまな衣裳、虚偽を剥ぎ取る人のことであるといえよう。既成の観念や心情で目の見えなくなった人々に一撃を与える人であるといえよう。
存在の詩とは、情緒の詩が人を酔わせるのに対して、人を覚醒させるものということができよう。
さまざまな衣裳や観念を覆して立ち現れた存在の詩は、当然のことながら既成の世界に安住する人たちにとっては強烈なクリティクや、ユーモア、サタイアを放つものに見えるだろう。
たとえば、応接間に置かれたピアノは別に滑稽でもなんでもないが、深い谷底に置かれたピアノは、それ自体が何かを告発し、嘲笑しているようにも見えるであろう。
発見とは、外に何かを探すことではない。発見は、自己変革によってしか起こり得ないものである。
古い自己を脱却すること、そこにしか発見はあり得ない。
詩人は詩の完成を目ざすべきではない。目ざすべきはつねに安定しようとするみずからの詩芸術の破壊である。そして、新しい事物と現実の発見に立ち向かうことである。目ざすべきは自己変革である。
自己変革はいかにしてなされるか。それにはまず、自身を世界に向かって開くことである。自己を自己の力で充実させるのでなく、世界を受容し、自己を消滅させることである。
詩人にとって、自己とは世界の棲む場所である。自己はそれ故に限りなく大きくなければならない。私は、それを且さす。私はそのなかで幾たびでも生誕できる。世界と混淆し、新たなフェニックスのように。
私には囚われるものがない。私の変革、発展は、あたかも樹木のように私自身の力によって行われるものではない。私は私を知られざるものの手にゆだねる。
私は事物から学ぶ。存在の詩の秘儀はここにある。
私たちは名称の世界にいる。人間はあらゆるものに名前をつける(あたかもそれが人間の特権であるかのように)。しかし、一頭の(岡崎功の詩による)チョウを見てみるがいい。あなたは一頭のチョウの生活内容、朝、昼、晩、喜びと悲しみ、恐怖等々がわかるだろうか。そして、それを共にすることができるだろうか。おそらく、チョウは私たちと何の関係もあるまい。同情されることも、名を付けられることも必要ないだろう。一本の樹木も私の理解を絶している。
人間は名づけることによってすべてのものを自家薬籠中のものにしていると思いこんでいるふしがあるが、人間がいなければ、本来カツオもフグもタコもそれぞれの名称はないものである。大陸はひと続きで国境もないのである。そしたら、そこに何があるか。原初の荒々しい自然、生き物があるだけである。私たちはそれに向かって自衛しなければならないだろう。
私はいま、人間がいなければといったが、人間がいたとしても事物の側に立てば本来名前など何の必要もないはずである。事物の赤裸の貌、たとえば私たちはこの世に生まれたばかりのとき、いっさいの事物の名称も用途も知らず、そのような貌とまっすぐ対峙し、交歓していたのではあるまいか。
私たちは事物を知ることができるだろうか。事物は知れば知るほど私たちから遠ざかるのではあるまいか。
人間は事物を名づけることにより、逆に事物から隔離され始めているのではあるまいか。
人間がいかなる解釈をしようと、事物はいっさいの解釈を許容しないで、人間とは本来かかわりなくそこにあるだろう。
私にとっては、アリも、ヘビも、チョウも、馬も、生あるものとして対等、平等である。彼らも私が生きているように生きている。彼らの生に善悪はないだろう。なのに、なぜ私の生は悪であったり、善であったりするのだろう。
私は名づけようもない初めての世界で、たったいま生まれてきたもののように彼らと対峙し、事物から学ばなければならない。私が生まれてきた世界の何であるかを。
去る4月、私が誰よりも深く付き合ったひとりの画家が死んだ。死ぬときは誰でも孤独であるだろう。死の数ヵ月前から彼は自己の死を自覚していたふしがある。彼は何を見つめていただろう。彼は自己の深淵を見つめていただろうか。私は彼が本当に生きていたものは何だったろうかと思ってみて、愕然とする気持になるときがある。ひとりの人間の生の深層は容易にはわからない。あるいはそれは、当の本人にも十分にはわからないものかも知れない。人は自分の生すらも本当のところはよくわからずに生き、そして死んでいくものかも知れない。だが、だからといって私はそれをむなしいとは思わない。
残された作品には、作家自身にさえ自覚されない深い作家の生が残されているものである。作品には、いかなる先入観をもっても近づくべきではない。
——「詩についての断片」17(1992.7)「舟」68号)