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詩と普遍性

 詩と普遍性については前にも書いたが、この問題はいろいろな角度から何度繰り返して考えてみてもいいと思う。

 先ず、詩の普遍性はどこにあるか、ということである。

 端的にいって、それは、なるべく多くの人に分かりやすく読まれること、というようなところに簡単にあるのではない。

 平明な詩すなわち普遍的な詩、とは簡単にはいえない。

 私自身についていえば、私は大体中学生なら読めるぐらいの表現を心がけているが、これは、なるべく多くの人に分かりやすく読んでいただくためというより、私自身を明白にし、ごまかしやあいまいさを拭い去るための努力、つまり、自分自身の感性、意識、思考にカビを生やさず、目をクリアにするための私自身への一方法、といっていいのである。 

 言葉をかえると、詩は伝達ではなく存在することを目的としており、普遍性もその存在のなかにある、ということである。

 先ず、存在しなければならない。伝達はそれに付随する。

 詩はサービス業ではなく一次産業に属する、と考えるのも、生産のなかに普遍性も、価値も宿されていると思うからである。サービス業は作物を普及してくれるが、その価値はゆがめられたり、誇張されたりすることがある。

 だが、市場がどのようにその作物を評価しようと、その作物の本来の価値は変わりはしない。

 百年前に百フランだったゴッホの作品がいま数十億円したとしても、ゴッホの作品の本来の価値は発表された時点からほんの少しも変わってはいないのである。

 つまらない作品はかりにいかに喝采を浴びようと、最初からつまらないし、最後までつまらない。

 良い作品はかりに誰も気付かなくても、最初からそして百年たってもやはり良い作品であることに変わりはない。

 この良いとつまらないを見分けることは、巨大情報産業の時代に入ってきわめてむずかしくなってきている。しかし、この判別は不可能ではない。

 

 作品のなかに普遍性と、価値は宿る。全ての作品活動にたずさわる人は、この恐るべき宿命から逃れることはできない。

 そして、作品は作者のなかで醸成される。

 作品の普遍性も、価値も、作品以前の作者のなかに宿るものである。

 すなわち、作品の普遍性と、価値は、作者の生き方が決定するものだ、ということになる。

 これをいいかえると、作品の普遍性と、価値は、作家がテクニックのみで生み出せるものではない、ということになる。

 (ただし、テクニックは存在そのもの、厳密にはそれは発見である。私自身は、テクニック=存在という考え方に立っており、従って作品の普遍性や価値はつねにテクニックそのもののなかにあり、テクニックをはなれてそれはあり得ない、と思っている。これは先の言と全く矛盾するようにみえるが、それが矛盾するものでないことを示すには、あらためて「技術論」あるいは「作品論」の項を立てねばならないので、ここでは省略する。(本誌56号の本稿(5)<形について>を参照されたし))

 

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 詩の普遍性と、価値は、作家個人のうちにあるということは、それが作品の属性もしくは付加価値ではなく、作品の本質に属する、ということを意味する。

 詩の普遍性とは、つまり人びとの約束事の場にあらかじめあるのではなく、ひとりの生きる個の特殊の場に宿るもので、個がなければ普遍もまた生じ得ない、ということである。

 

 普遍性とは、いかなる観念でもない。

 

 普遍性とは、個の生のうちに、有限のそれも過誤に満ちたひとりの生のなかに、ひそかに包まれてあるものである。

 しかも、普遍性は、個の自覚的な努力によって得られるものというより、深く無自覚な生も含んだ個の全体をとおして得られるものである。

 そしてさらに、このように普遍的な生は、特別に詩人や芸術家に与えられたものではなく、すべての人それぞれのうちにあるものなのである。ただ、特にナイーブで謙虚な心をもつ詩人や芸術家がそれに魅了され、引き寄せられ、それのうちへと目覚めていくことができるのである。

 詩人とは、個を生きながら、個を超えたものに合致していくもののことである。

 想像力=シンパシイの欠落が個を個のうちに閉ざす。

 詩人は感性を開き、何ものをも受け入れる。限りないメタモルフォーゼのうちに何ものかになっていく。

 ここで、先ほどの( )内のことに少しばかり触れておくと、作品のフォルムはすべてこのプロセスを蔵している、ということになるのである。

 フォルムは、作家の痛みを含む生に決定づけられる。

 フォルムは、いつでも作家の生の全的な存在証明である。

——「詩についての断片」15(1992.1「舟」66号)