詩は、おそらく何ものかへの<おそれ>が書かせるものであるに違いない。
すでに分かっているもの、了解ずみのものを書いてもはじまらない。作者にとって退屈なものが、どうして読者に新鮮でり得よう。
未知を前にしたわななきが読者をとらえる。そのためには、作者の感性はまだ文字が書き込まれるまえの白紙のような状態でなければならぬ。
このことは言い換えれば、詩はあらゆる既成の観念を脱却するためにある、ということになろう。
あらゆる哲学、あらゆる思想からも、詩は解放されるべきである、ということになろう。
盲目の、暗黒の闇に向かって、ただうちふるえるみずからの感覚につき従ってどこまでも行くもの。それが詩人というものではないだろうか。
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ロゴス=言葉=法は、おそらく初めに、私がまだ生まれる以前にあったものにちがいない。そして、それはおそらく最後に、私の死のときに再び示されるにちがいない。
私の生は、おそらくただその成就のためにあるだろう。
ロゴス=言葉=法は、当然のことながら私以前にあるだけではなく、私の現在にもあるはずである。なぜなら、私はその範疇内にあり、私はそこから生まれたというより、まだその胎内にあるということもできるからだ。
胎児と母体は別個ではない。
胎児は母親を外からみることはできないし、理解することもない。だが、胎児は母体を生き、それを体現している。
生命が母親から生れおちたとき、新しい生命は母親の顔を見るだろう。そのように、私も死んだとき、ロゴス=言葉=法の顔を見ることができようか?
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『アポカリプス論』のなかでD・H・ロレンスは、”私たちの祖先は比較的最近まで、水星や、土星の運行までキャッチする能力があった。今でも、月の満ち欠けぐらいなら感応できる能力を持つ人びとはいるが、その能力も急速に衰えるだろう”という意味のことをいっているが、この能力は、おそらく覚醒状態のなかで自覚的に得られるものであるというより、無自覚な、ほとんど無意識の、本能的な状態のなかで可能なものではあるまいか。
私たちは文明といわれるものによってさまざまなものを得たかのようにみえるが、自身の根源的能力を失ってきたのではなかろうか。
古代の詩や芸術には呪術的力ともいえるものがあった。ヴォリンガーも指摘するように、それは<おそれ>によって生じたものであろう。何もかもが分かってしまった(?)現代人にそのような力はない。
生とは何か。<おそれ>を失ってしまった生とはいったい何だろうか?
ロゴス=言葉=法、この始原のものに対応する能力を失った人間は、みずからの、みずからによる、みずからのためのロゴス=言葉=法を追求するようになる。だが、それは確実に人間を始原の言葉から遠ざけることになる。母胎に感応する力を失った胎児は、誕生することはできない。それと同じように、始原の言葉に背を向けた人間も、誕生することはない。
誕生と死、このパラドックス、それは秘儀である。同様に、この生も秘儀である。死は、無意味ではない。なぜなら、死によってはじめてこの生の意味が明かされるからである。逆にいえば、死がなければ本来的な生もないからである。
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繰り返すが、私はこの生を理解しようとは思わない。私は、私の生が何ものかによって満たされていれば、それでいい。
私は、私の生を自覚的に、選択的に生きようとは思わない。私の生は、私が選びとったものではない。それは、まったく不可解である。しかし、私はそれを生きたいと思う。私を包み込むものを体現するために。それを成就するために。
”ハジメニ、言葉アリ”私は、それを感じる。
私は、何かを得るために生きるのではなく、いまや失うために生きるべきなのだ。
何かを持っていれば、何も見ることはできない。
盲目の、真裸の感性のなかで、私は心臓の鼓動を聞く。この鼓動は、私のものではない。私の意思の範疇には属さない。
私は、皮膚の細胞のひとつひとつによって生きている。この細胞のひとつひとつは、私に属さない。
この細胞のひとつひとつが、何かを見ている。私はそれに、合致しなければならない。
——「詩についての断片」14(1991・10「舟」65号)