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<詩>を読む

 何を、どう読むか、にすべてはかかっている。それは<詩>ばかりではない。人の生も同じである。

 かりに、あなたが身の不遇を嘆こうと、幸せを感じようと、それは、あなたの生の読み方いかんによるものだ。

 生の読み方はひと通りではない。それは、先人たちによってもさまざまに示されている。あなたはそのいずれかをほとんど無意識のうちにも選びとって生を読んでいる。それによって生きている。人はその限りではみずからの感性を必要としない。みずからの思考を必要としない。しかし、突然めくらむ痛みに襲われたり、未知の世界に投げ出されたりしたらどうするか? あなたは、自分の生を生きているのは自分自身だ、誰も自分にとって代わることはできないし、自分で世界を読みとり、自分で世界に、自分でこの生に対処するより他にない、と気付かないだろうか。

 あなたはそのとき、自己の感性を開き、真裸で世界に向き合う以外にない。そして、自分がどう生きていくかを自分自身で考える以外にない。

 

 詩を、どう読むか、その読み方もひと通りではない。いま未知の一篇の詩を前にして、あなたはその詩をどう読むであろうか? ある人は、その詩をすばらしいといい、ある人は、その詩をつまらない、という。どちらが当たっているだろうか。その規準は何だろうか。

 伝統ある定型詩は、先人たちによってある程度その読み方が広く示されているし、それを深く研究すれば、その読み方も大きく間違うことはない、ということもできるであろう。

 しかし、伝統の浅い自由詩において、その読み方の規準はきわめてあいまいで、ほとんど恣意的であるといってよい。

 現代詩の混迷は、その詩型の多様さにあるが故に定型を目指そうという人もいるが、私は、自由詩の生命ともいえる一大特長は、自由と、そして多様にあると思うので、この意見に与することはできない。現代詩の混迷は、私は、その書き方にあるのではなく、読み方にあるのだ、といいたい。

 すなわち、いかに書くかではなく、いかに読むかの混迷のうちに現代詩があると思うのである。

 いいかえると、一篇の詩を前にして、<詩>とは何かという問いかけを根源にまで追いつめる作業がとぼしいということ、<詩>と<散文>のちがいもろくに分からぬ人が平然と詩の評や選をしていることが、現代詩を分かりにくく、かつ、つまらなくしているといえるのである。

 良い詩は、いつの時代にも生まれているものである。ただそれは、読みとる力を持たない人に見えないだけである。

 

 自由詩はいかに読まれるべきであろうか?

 伝統の浅い自由詩において、その読み方の確固とした規準はまだない、と私はいったが、これは、私がそのことを嘆いていっているのではなくて、実はこのことのうちにこそ自由詩の輝かしい本質があるのだ、ということをいっておきたいのである。

 自由詩は、その出発において定型詩に対して反逆的であり、前衛的であった。前衛精神は自由詩の精神であり、その本質である。

 前衛精神を失った自由詩は、形は自由詩であっても本質的には自由詩ではない。

 自由詩は、伝統が浅いがゆえに読み方の規準が未だ確立していないというよりも、その出発において、その本質において、客観的にスタンダードな読み方の規準を拒否しているものである、といえるであろう。

 従って、あなたがいま目の前にある自由詩に参画しようと思えば、まず自分の頭のなかにある何らかのスタンダードな読み方の規準を捨ててかからねばならない。

 あなたは良く書かれた詩をそこに求めるよりも、あなたを触発してくれるものをそこに求めるべきである。

 あなたの頭をうちのめし、あなたの目を開かせ、あなたを変えてくれるものがそこにあれば、それは最良の詩だ。だが、せっかくの最良の詩も、かたくなな頭、ひからびた感性、おごった心にとっては何ものでもあるまい。

 

 自由詩はいかに読まれるべきであろうか?

 現代詩を通り一遍に読んだだけで、"現代詩は衰弱している"と簡単にいうなかれ。みずからの無知と、衰弱をまず省みよ。

 "現代詩に読者はいない。いるのは書き手だけだ"という人よ。詩を失っているのは、求めようとしないのは、そういっているあなた自身ではないのか? ささやかな例をあげよう。

 つい先日、小さな詩集を手にした。高知の土佐出版社刊、大森ちさと詩集『梨の花』、B6判74頁、簡素な造本で、この地方のほんの少しの読者を対象にしたものではないかと思われる。県外の方でこの本を手にした方はいられるであろうか?

 

  美しい国

 

 美しい国へゆきたい

 布団をあげたり

 お茶碗を洗ったり

 庭を掃いたりしながら

 美しい国へゆきたい

 エプロンをしたままゆきたい

 迷わずにゆきたい

 

  ぼたんの花

 

 ぼたんの花が咲いている

 母が私の二十歳の祝いに植えた

 ぼたんの花が咲いている

 「何もしてあげられなかったから……」

 母はため息をつきぼたんの花を見ている

 雨がふりそうだと父が雨傘をもってくる

 

 ふりつづく雨の中

 貴婦人のように雨傘をさしている

 ぼたんの花があり

 父と母と私は食卓を囲んでいる

 

 一読、私はどきりとした。何か忘れかけていた非常に大事なものがここにある、と思った。それを持っている確かな人がまだここにいた、と思った。幡多郡西土佐村といば高知市からも簡単に行けない辺境だが、著者はここに住んでいておそらくどの詩のグループにも属したことがないようである。私はこの詩を、木下夕爾氏がもし生きていたらぜひ読ませたい、と思った。夕爾さんならこの詩をストレートに分かってうなずかれただろう、と思った。私は、ためらわずこの詩を一級の詩といいたい。それは、この詩のたたずまい、香り、ひびきにある。

 たたずまいも、香りも、ひびきも、存在が発するものであり、それは頭ではなく、自分の感性を開いて全身で受けとる以外にないものである、といえよう。

 詩評家を自認する人にいいたい。頭のなかの出来合いの詩壇地図を捨てて、自分自身の目で、草の根を分けてもこのような詩人を探せ、と。戦後詩の歴史も半世紀を経ようとしているが、重要な詩人で埋もれたままの詩人も少なくない。その詩人たちに光を当てたとき、安直にまとめられた今までの戦後詩史なるものはその存在の影を薄めるかもしれないのである。

 大森ちさと詩集『梨の花』は第二詩集である。土佐出版社主国則三雄志氏によれば、その第一詩集は七年前、著者二十代半ばのとき、国則氏がその詩集に感動して自費ではなく社の企画として出版されたという。その本が手に入らないか、と聞くと"全部売り切れた"という。

 "買ったのは、多分詩人ではないでしょうね"

 "ええ、詩人じゃないですね。しかし、熱烈なファンがいるんですよ"

 現代詩は不毛で、読む人などはいないという思い上がった詩評家どもよ、恥じよ。

 

 前衛に規範はない。お手本とすべきモデルがあれば、それがどのように目新しかろうと、それは決して前衛ではない。

 前衛は美から出発しない。形は、存在の在り方である。自由詩において、形は作者の在り方である。

 

 自由詩はいかに読まれるべきであろうか?

 自由詩において重要なのは、言語美の探求ではなくて、存在そのものである。

 詩は存在であり、存在は直観で、全的にキャッチする以外にない。存在は分析する頭の前では消える。すなわち、詩は散文的頭脳では捉えることは出来ない。

 直観は想像力でもあり、それはシンパシー、コレスポンダンスの能力ともいえよう。

 そのような能力、詩を読みとる能力は、案外"詩人じゃなくて、詩の熱烈なファン"が持っているのかもしれない。

——「詩についての断片」13(1991.7「舟」64号)