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個を考える

 「舟」は創刊の一九七五年、その発足の覚え書に次のように記した。

 ”いまや、詩人の行為は個の生の危機との戦いである、ということができる。個の生の危機は、今日私たちを取り巻く人間的状況、文学的状況のいたるところに現れてきている。私たちはそれに目を閉ざすべきではない。詩作はいまや、文学のためにあるというよりも個の生の復権のためにあるべきだ、ということができよう”

 これは、その発足にあたって右の文章の末尾にも記したように、”私たちが私たち自身に向かって発した鋭い問いでもある”のであって、これからの長い詩への行程へ向けての自戒の意をこめたものであったが、さて、それから十六年を経て、この自戒はいまや不必要なものとなったであろうか。

 ”詩人の行為は個の生の危機との戦いである”といったが、この春たとえば、全国の学校卒業式では”君が代は千代に八千代に”の歌が国歌としてほぼ強制的に歌わせられている。主権在民の憲法下で、欽定憲法下の主権在君の歌が、である。個の存在は、これでも安泰だろうか。国益のために、企業の繁栄のために、個の存在が軽んじられる傾向は強まっていないか。いや、それよりも前に、私たち自身がその強大な力に屈服し、目を閉ざし、挫折感を味わっているということはないか。

 この十六年間に何が起きているのか、私たちの個の生は今後どうなっていくのか、私は詩を書くうえでもこの問題に目を閉ざすわけにはいかない。

 ところで、私はこのようなことを考えていた矢先、私の最も信頼する親しい詩の友人に、次のような忠告を受けた。

 

 ”あなたのいう個は、私たち四十代前半以後の世代にはもう十分あるのであって、それを問題とすること自体ナンセンスである。私たちは、個を問題意識する必要もなく個をまさに生きている世代であり、個の危機云々はあなたたち古い世代の杞憂である。あなたたちは、いまの若い世代の生と文学をもっとよくみつめるべきである”(筆者要約)

 この言葉は「舟」の根幹にもかかわるものであり、また広く現代文学、現代芸術、現代文化にもかかわるものであると思われるので、あえてここでとり上げてみたい。

 

 *

 

 まず、個とはいったい何かということだが、絶対的に自由な個というものがはたしてあるだろうか。

 個とは相対的にしかあり得ないのではなかろうか。

 個を問題とする必要もないほど、個を十全に生きている生とはいったいどのようなものであろうか。

 たとえば、物が世の中にあふれ、収入も適度にあり、自分の欲望を自分の生活空間の寸法に合わせてコントロールし、それ以外のものを見なければ、ささやかながら絶対的な個の自由の疑似体験はできるであろう。

 しかし、この疑似体験は自己欺瞞にしかすぎない。

 絶対的な個などは本来あり得ず、そのあり得ないものを体験したと思うのは夢想にしかすぎない。

 たとえば、イブ・モンタン氏はそれほど革新的な人とは思われないが、夢想家ではない。氏は次のようにいう。

 ”私がかりに政治に目を閉ざそうと、政治の方が勝手に私の方にやってくる。私はかかわりたくなくても、それにかかわらざるを得ない”

 私は友に聞きたい。かかわることによって個は失われるだろうか。

 たとえば、私たちはいま、手紙一通出すのにも郵税にさらにプラス三%以上もの消費税という名の税を払わされているのだが、そいうことには目をつむり、あきらめてしまうことが、個の自由を生きているということになるのであろうか。世の中に起きているあらゆる理不尽、不正に目を閉ざし、かかわることなく、わが身ひとつの安泰に専念することが、個を十全に生きることになるのであろうか。

 清潔な場所で、外敵からも守られ、十分に餌を与えられているブロイラーの鶏は、おそらく”個を問題意識する必要もなくまた、個の危機云々”とも無縁の、最も安泰な個を生きている存在といえるのであろうか。

 それに比べて野生の鳥は、つねに外敵を警戒せねばならず、食物も自分で探さねばならない。何ものからの庇護も受けない彼らの個は、つねに危険にさらされているし、いやでも自己の存在を意識せざるを得ないであろう。この真裸の感覚と、鋭い意識こそが、個の存在に不可欠のものであるといえるのではないか。

 個は、観念や、夢想のなかにではなく、具体的にある。

 個は、生命あるところに、時間とともにある。

 個は、生命への意思とともにあり、それを脅かすものへのレジスタンス抜きにはあり得ない。

 個は、みずからが置かれた状況へ目を開くことなしにはあり得ない。

 

 個は、みずからの外なる世界とのかかわりにおいて発生する。

 個は、鈍磨した感覚や、意識の世界には発生しない。

 個は、さまざまの事象とかかわるその生命行為のなかで獲得されるものである。

 個は、すなわち行為と不可分にしか存在し得ないのである。

 

 個は、どこに存するか。

 個は、赤裸な感性、痛み、喜び、悲しみ、そして、生きようとする意志のあるところに存する。

 個は、あなたの感性すなわちシンパシーを開いて見ようと思えば、いつでも目にすることができるものである。

 詩も、画も、もろもろの芸術も、個の生の証にすぎない。それらがどれほど芸術的にすぐれていようと、個の存在、個の主張に欠けるものは、単なるファッションにすぎない。

 たとえ、一本の線であろうと、そこに個の生きた証がなければ、人を長くつなぎとめることはできない。

 あなたがもし詩人、芸術家を志すならば、あなたが置かれた今日のさまざまな社会的、歴史的状況に目を閉ざすべきではない。そして、個への状況がどれほど絶望的であろうとも、あなたはあなたの感性と意識を研ぎ澄まし、みずからに溺れることなく、対象に眼を注ぐべきである。

 対象に目を注ぐことによって、ただそのことによってあなたは自己を発見し、自己変革が可能となる。

 作者によって作品は、みずからの思いを伝えるための道具としてあるのではなく、ただただ存在するための儀式のようなものであれば、それでよいのである。

 だが、そのためにはみずからがまず生きていなければならぬ。

 生きるとはこの場合、自己の情念に溺れることなく、自己と自己の状況を見きわめることである。

 詩人が自己に目ざめるのは、自己に埋没したときではなく、世界と対峙したときである。そのとき、あなたは詩人となる。

 

 情緒の芸術は人を酔わせるが、存在の芸術は人を覚醒させる。真の個の芸術は、その作品に接する人にその人の生に目ざめさせ、生きる喜びと勇気を与えてくれるであろう。

 文学、芸術は、情緒ではなく、存在をめざすべきである。そして、存在の前提は作る人の個である。

 この国に情緒の文学、芸術は多いが、個の存在による文学、芸術は未だ非常に乏しい。

 

 小さなエゴに閉じ込められたインディヴィデュアルな詩や小説がこの国にも目立ち初めたが、それらはおおむね不安とか、虚無とか、アンニュイとかのサンチマンに彩られたもので、人類とか宇宙を垣間見させてくれたE・E・カミングスあたりのインディヴィデュアリティ(分割不可能なもの=個)とは程遠く、退屈きわまりない。

 問題は、個ではなく、個の在り方である。そしてまた、個の状態ではなく、個のなかに何があるか、である。

 個が生きているものが何であるか、が問題なのである。その限りで、インディヴィデュアリティの文学に私が興味がないわけではない。

 

 *

 

 個の問題は、相対的な次元を超えてさらに深い省察が必要となる。個の生は、ある意味で天与のものだということもできるからである。天与のものとは何か。

 先ほど野生の鳥が出てきたが、たとえば、生まれたばかりの赤ん坊を見てみよう。その輝く燃える生命は、何ものにも妨げられることなく最も純粋な個をあらわしているといえないか。だが、人は成人してこの十全な個をどれほどもっていよう。

 赤ん坊が私たちを感動させるのは、赤ん坊は私たちがもっていないものをもっているからである。

 さて、ここで個に関するさらに重要な問題が出てくる。

 

 個は、初めにいあるのではなく、生の過程をとおして得られる相対的なものだと述べてきたが、それらはここで、仮に自覚された個と呼んでおこう。

 それに比して、赤ん坊や野鳥のような天与の個を、自覚されざる個と呼んでおこう。

 自覚された、相対的な個は、ヒューマンの世界のものであり、自覚されない、絶対的な個は、神(仮にそう呼んでおく)の世界に属するものといっておこう。

 だが、この二つの個は二つであるのではない。個はひとつであり、人はただひとつの個を生きるのみである。

 個は、生に属する。だが、生は個に属するのでなく何ものかに属する。

 あなたはあなたの生を自分で決定することができるかも知れないが、あなたは自分の生が生まれてくることを自分で決定することはできなかったはずである。あなたの生は、すなわちあなたではなく何ものかに向かってたえず投げ返され、それによってあなたの生は充実し、個は拡大されるのである。

 

 個は、すぐれて生命的なものである。だれもそれを犯し、消し去ることはできない。詩人とは、その最も美しい個の所有者を目指すもののことでなければならないであろう。

 

——「詩についての断片」12(1991・4「舟」63号)