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普遍性と孤独

 ある作品を観るということは、ひとつの小宇宙に参画するということである。これは、あなたが何らかの観念にとらわれている限り困難なことである。

 

 方寸の仮寓に住んでいても、その体験は人さまざまである。夫婦、親子といっても、その体験内容は決して同じであるわけではなく、理解しようとすればするほどその存在は遠く、巨大な一冊の書物をひもとくよりも難解となってくるであろう。

 同じ屋根の下にいてもこうなのだから、異なった屋根の下にいる人はさらに遠い星であろう。

 まして、まだ見ぬはるかな土地、はるかな時代の作品——そのはるかな個の濃密な世界に参画し、感動するということはどういうことなのか。

 結論からいおう。孤独こそ絶対の場所である、と。

 孤独こそ、すべてを可能にする場所である、と。

 まず、それが了解されなければ以下の文章は無意味となる。

 作品も、ひとりの人間と同じように、他者の理解を絶した孤独なミクロコスモスであるからである。

 

 あなたが、あなたにショックを与え、あなたの生涯を変え得るほどの一篇の詩に、あるいは一枚のタブローに出会おうと思うならば、あなたは激しく失恋するか、失意のどん底で自身の孤独を噛みしめていかなければならぬ。

 

 いかなる知識からも、先入観念からも、作品は遠い存在である。ひとりの生きた人間がそうであるように。

 

 コレスポンダンスはいかにして可能であるか? 孤独のなかで、ひとはまずみずからを喪うことから始めねばならない。

 感覚は窓である。感覚を全開にし、イマジネーションをフル稼働しなければならない。体験はそのなかを立ち昇り、他者と混交し、あなたは何者かになるだろう。

 

 体験、といまいったが、体験とは厳密にいって自己が知っていることの繰り返しではなくて、未知なるものとの遭遇の場に生まれるもの、というべきであろう。

 ”詩は、体験をとおして”ということは、詩人はつねに未知なるものと遭遇し、変貌しなければならぬ、ということである。

 昨日と同じ今日のなかで、詩が生まれることはあり得ない。詩人とは、この未知なるものとの遭遇をとおして、可能な限り遠くへ達しようとする者のことであるからだ。

 

 存在は、体験のなかにしかない。発見と、驚異にうちふるえているもの、たったいま生まれたばかりのもの、それこそが存在である。あなたが所有しているもの、それが存在である。

 

 存在=体験を、理解することはできないが、了解することはできる。遠い星を理解することはできないが、了解することはできる。

 そのために必要なものは、沈黙だ。騒音を断つことである。

 騒音と、色彩、コトバの氾濫のなかで、ひとは存在を見ることはできぬ。イマジネーションは衰弱する。孤独の場を失ってひとは何を見ることができようか。

 巨大情報産業が流す情報を世界のひとが瞬時に受けとり、体験を共有できると思うことは、あなたを幸せにしてくれるだろうか? あなたはただ失われているだけではないか?

 作家が、最大多数の共通願望をコンピュータで引き出し、それを作品化したとして、そして、それが世界のブックストアの店先を占有したとして、それが作品の普遍性の証左ということには決してならない。

 文明がいかに画一的な生活を人びとに押しつけようと、A氏の生活をB氏がとって代わることはできない。

 だが、人間が将来、孤独と沈黙の場を失い、イマジネーションが単なる技術に奉仕する特殊な一能力と堕し、感覚が一様に飼いならされてしまうようなことがあれば、つまり、人間が単なる動く物体(動くのも面倒であれば、動かなくてもいい時代が出現するだろう)ということになれば、A氏も、B氏も、C氏もなくなる。人間のいない人類とはいったい何だろう。

 

 詩人は、古き時代、古き良きものに固執しようとするのではない。詩人は、政治家でも、万能のひとでもない。ただ詩人は最も弱い、敏感な存在であるがゆえに、おそらくは人類の最後まで、この孤独の場をみずからの中に持ちつづける人間であることができるひとのことであろう、と思われる。

 

 孤独の場をもち、そこに生きることができるひとを詩人ということができよう。

 生きるとは、この場合、何かを感じることである。

 イマジネーションとは、ここでは他者に感応する全人間的な能力、つまりシンパシーとほとんど同義語であり、対象がどのように遠く離れていようとも瞬時にその全体像をつかみ得る直観力とも同義語となる。

 

 普遍性とは、このような個を離れてはあり得ぬものである。

 普遍性とは最大公約性ではない。普遍性とは、孤立した個がみずからのものとして所有できるものでなければならない。

 

 ”詩は万人のために書かれるべきである”というが、万人とはいったいどこにいるのか?

 万人は、孤独なひとりの詩人のうちにいるのではないか?

 いや、万人などどこにもいはしないのだ。世界には45億の孤独な星が明滅しているだけだ。

 詩は、孤独のうちに書かれる。そして、それは世界の孤独の星がめいめいのうちに所有することができることを望む。

 

 普遍性とは本来、個が各人で、おそらくそれと知らずに持っているものであるにちがいない。あたかも、神がすべての人に宿るように。

 だとすれば、みずから自覚して書かれたものは完全な普遍性を欠くもの、ということになろう。

 

 詩における普遍性が、はじめに概念として、観念としてあるということは絶対にない。

 美も、真も、善も、人間の行為以前にあるということはない。

 

 ある時代に、絶対普遍と思い込まされている思想も、モラルも、詩や、芸術にとって安全な拠り所とは決してならない。

 

 ある時代のプロパガンダの詩や、芸術が非難されるべきであるのは、それが拠り所とした思想や、モラルのためではなく、その行為性の欠除に対してであるべきである。

 

 体験は、孤独と沈黙のなかにあり、詩人の行為はそこにしかない。

 大戦中の国策に沿った戦争鼓舞の詩や、芸術が非難されるべきであるのは、それが詩人や芸術家の行為によるものではなく、観念によるものであった、という点であろう。

 戦争鼓舞の詩の多くは、一見血を流しているようにみえてもそれは観念の詩で、詩人の感性の血はそこに流されていない。

 心情詩の多くが非難されるべきであるのは、その心情のためではなくて、そこにひそむ古い観念や、モラルのためである。詩人の行為の放棄ゆえに、それは非難されるべきである。

 戦争鼓舞の詩の多くもこの範疇に入る。

 

 詩は、そして芸術は、いかなる観念からも出発すべきではない。

 詩人は、そして芸術家は、みずからが天から与えられたその真裸のヒリヒリする完成を世界の風にさらして生きるしかないであろう。詩は、そして普遍性は、そこにしかない。

 私は、観念=ウソといいたい。詩や、芸術は、ウソから出発すべきではないのである。

 

 F・カフカは"私は弱さの部分で書く"といった。

 カフカは"強さの部分"つまり"ウソの部分"で私は書かないといったのだ。

 カフカはまた、"世界の弱さの部分を引き受ける"ともいっている。

 カフカはつまり、世界の"真実の部分"を引き受けるともいっているのだ。

 私は、こういうカフカに絶対の信頼を置きたい。

 

 20世紀の最も重要な詩人として、次の3人の名前をあげているヨーロッパ人がいた。

 ジェームス・ジョイス

 フランツ・カフカ

 E・E・カミングス

 ヨーロッパ人の名前は思い出せないが、私はドキリとした。私も同感であったから。これはもう20年も前のことであるが、この思いは最近ますます強くなってくる。さまざまな時代をくぐって、真の詩人はその大きな全容をあらわにしてくるものであろうか。

 

 真裸の感性を開いて、そこには世界のあらゆるものがなだれ込んでくる。

 詩人には、そして固執すべき何ものもない。あらゆるもののなかで、詩人はほとんど自己を放棄しているようにもみえる。詩人はそうやって、世界を経めぐっているかのようだ。

 だが、そのなかで徐々に何かが形成されていく。そこには何らかの法則と、秩序性があるように思われる。

 この孤独の部屋で、詩人が成長し、何かを獲得していくのはいったい何によってであろうか?

 おそらく、それは自力ではあるまい。

 ロートレアモンは"ぼくは生まれてきたという恩寵だけで十分だ"といった。

 詩人の成長は、その生誕と同じく、みずからのあずかり知らぬ何ものか、ある大きな力によってであろう。

 ただ、詩人は願う、世界と合体することを。

 

——「詩についての断片」11(1991.1「舟」62号)