あらゆる芸術作品において重要なものは、その作品が作られる以前にある。ということは、作品に着手してから良い作品を作ろうとしてもそれはムリだということで、作品は制作以前にすでに決まっている、ということである。
これは、作品は作者と切り離して考えることはできない、ということを意味する。
作品は、固有の人格をもった作者に属するものであり、作品にあらわれているものは、良くも悪くもその作者の全人格、生きてきた全プロセスだ、ということである。見る目をもった人に対しては、これをテクニックなどでごまかすことはできない、ということである。
これはつまり、作品において重要なものは作品以前にあるということだが、ここから何が帰結されるだろうか?表現にかかわる人、関心をもたれる人は、一度この問題を冷徹に考えてみてもいいと思う。
鋭敏な読者はお気付きかもしれないが、「舟」の目次欄にはもうずっと以前から<詩>の項目がなく、単に<作品>と<エッセイ>が便宜的にあるだけである。<作品>は読者がそれを詩と認知すれば<詩>となるであろうし、あるいは、作者がそれを<詩>と思い込んでいても読者にとってはそれが少しも詩ではない場合もあるのである。そしてまた、現代の読者がそれを詩と認めなくても将来の読者がそれを<詩>と認める場合もあり得るし、逆に、今日<詩>の代表と目されているものでも将来まったく見向きもされなくなってしまうものも少なくないのである。
ここから帰結されるものは、文字や芸術にはある絶対的な規範というものはあり得ない、ということである。
文学や芸術は、ある表現行為の結果としてあり得るが、表現行為は本来、文学や芸術などと名付けようもない混沌から始まる。詩から詩が生まれる、ということはあり得ない。詩をいくら学んでも、詩らしいものは書けてもそこから本物の詩が生まれるということは本来あり得ない。もし生まれるとすれば、それは自身が内包する要因によってである。
一篇の詩は、ひとりの人間の全プロセスから生まれ、人間に属するのであって、既成の、観念としての詩に属するものではない。その必要もないし、また、そういうものを詩人は目ざすべきでもない。
既成の、それも借り物にしかすぎない詩の尺度で作品に接して、しかもその優劣を云々できると思うのは、不遜である。作品は、それ自身がもつ価値で存在しているのであって、誰かが何かをそれに付与することは決してできない。作品を前にしていかなる評言も、評者自身を語るにしかすぎない。評者自身の感性、知性、人格をさらけ出しているだけのことなのである。作品は、それによって微動もするものではない。
作品とは本来、他のいかなるものとも代替不可能な、名付けようもない<何か>なのであり、それが仮に<詩>と認知されようと、されまいと、その作者にとっては何かかわりのないことであるはずである。
「舟」に<詩>があるか、ないか、それは「舟」が決めるべきことではなく、読者にゆだねようと思うのである。
表現の主たる目的は何か?作者の思考、意志の伝達であるか?否。表現に第一義的なものは<存在>である。
伝達は、表現の結果にすぎない。伝達は、表現者の主たる目的、第一義的なものではなく、二義的、付随的なものにすぎない。
作品が表現しているものは、そこに扱われている素材が何であれ、作者の丸ごとである。
しかも、作者の丸ごとであるこの存在を、作者自身がすべて自覚しているわけではない、という点が重要である。
作品において重要なものは作品以前だといったが、この作品以前の作者の生が作者自身にも明確でないということは、作品も明確に自己管理できるものではない、ということを意味する。
作者の生も、作品も、決して自覚的、作為的に決定され、かつ管理し得るものではないのである。
従って、伝達も作者が意図するとおりに伝達されるとは限らず、制作活動を単なる伝達手段とするのは基本的に誤っている。伝達は受け手がいて発生するが、作品はその前に存在しなければならない。たとえば、野の一本の樹木のように、である。
作品は、作者と等価値である。それゆえに、作品は一人歩きするのであるが、それが完全に理解されるということは恐らくあり得ない。
ジェット機のなかでリルケを読み、感動する人は、ジェット機も、クーラーも知れないリルケの何に感動するのだろうか?
作品が完全に、正当に理解され得ないのは、あたかも自己自身の生もよくわからない人が他人の生を完全に理解することができないのと、同じであるといえないだろうか?
私は、善人であるといわれようと、悪人であるといわれようと、私の生を生きる以外にない。他の目を意識して生きているわけではない。私は、私をよりよく伝達するために生きているわけではないのである。私は、私でありたい、ただそれだけであってはいけないだろうか?作品も、これと同じであってはいけないだろうか?作品も、これと同じであってはいけないだろうか?野の一本の樹木のように。
野の一本の樹木は完全に孤独だろうか?それは夜、星と交歓してはいないだろうか?交歓しているとすれば、それはその全き存在によってであろう。伝達は存在抜きにあり得ない。
混沌と、不安と、絶望、そしてこの無限の絶望と孤独のなかに生まれる希望、これらの総体であるところの生。この生の全き反映物であるところの作品を、私は私に望む。
作品は、何によって読まれるか?
作品、この生命ある一個の丸ごとの存在は、理解や、分析によって捉えることはできないであろう。一個の生命体には、自身の生命で向き合う以外にない。作品を見ることを可能とするのは、見る人の直観力以外にないといえる。
さまざまな観念でいっぱいの頭を、私は全く信用しない。
生命に近づき得るものは、ただ想像力=シンパシーのみである。
想像力とは、人間の一つの能力、ある特殊な一能力であるのではなく、人間が生きていくとめに不可欠な、根元的な、全体的能力である。詩人や、科学者にとくにそれが恵まれていないとみえるのは、彼らが既成の観念にとらわれていないからとくに突出してみえるだけのことで、幼児期や、未開発の土地の人びとは、恐るべき直観力と、テレパシーをもっているし、それは本来的に誰もがもっていた能力なのである。
悲しみも、絶望も、希望も、愛も、そして、人がものを見得るのも、すべて想像力によってである。
詩人は観念=虚偽の力と闘う。あらゆる虚構=管理、体制と闘う。だが、それはつねに外部にあるとは限らない。感性がゆるみ、現状に甘んじて見ることをやめれば、たちまち自身のなかにもそれは生じる。どんなにすばらしい芸術も、一つの形にとらわれるとそれはまたたくうちに一つの権威、体制と化してしまう。それは、打ち破られねばならない。
詩が詩以前と離れて、一人歩きすることを警戒しなければならない。
芸術を、詩を、過信すべきではない。人間がいなければ、そんなものは生まれてこなかったのだ。
詩人はつねに、あらゆる混沌を抱えた全き生の立場に立ち帰ることを希求する。
”作品がすべてだ”と作者がいう場合、ここにはひとつの自家撞着もみえる。なぜなら、いかなる作家も自分の作品を完全にコントロールできるものではないからである。もし、そのような方向に専念すれば、必ず間違ったものが生じる。かりに、作家の意図するとおりの作品が完成したとしても、技能的にいくらすぐれていても、それは何の感動も呼ばない、退屈きわまりないものになるにちがいない。作品において真に重要なものは、作者の計算を超えた、作者自身もあずかり知らぬものであるだろう。
作品をコントロールすべきではない。
真の芸術家は、完成を避けるだろう。希求することをやめた人を、クリエーターと呼ぶことはできない。
ここでも重要なことは、作品ではなくて、作品以前、作者自身ということになろう。
いかなる作品も、作者の生の範疇から抜け出すことはできない。この場合においてのみ”作品がすべてだ”というこばはうなずけるのである。
作品に何を読むか?
あるとき、ある会合でH氏賞を受けた知人が私にいった。
”あなたは、作品を深読みしすぎる”
と。”深読み”とは何か?このことばは私に理解しがたい。作品は、書かれた表層のみを読むべきなのか?むろん、そこにある記号(文字、線、色彩、音など)を離れて、勝手な解釈をはさむべきではない。私は、作品を前にして、たとえば作者のプライベートな生活などは全く考慮しない。私は、その記号を前に私の全感性を開き、シンパシーで参加する。私は、私が得た文学的知識や、さまざまな感性をナッシングにして、記号=存在に対峙する。すると、そこには作者でさえ意図しなかったものが見えてくるのだ。そこに匂うもの、そこに響くものを感知しなければならない。人間の行為の最終的帰結である作品は、あたかも野の一本の樹木のように全身で何かを訴求している。作者の意図以上のもの、それこそ作者自身なのではないか。私は、それをトータルに見なければならない。
作品を単なる伝達の手段といるか、存在の行為とみるかで、その読み方も、在り方も全くちがってします。存在に向かう場合、必須のものは想像力である。想像力の欠落が、存在を失わしめる。存在を失った文化とは何か?今日の人間の危機の問題はすべてこの想像力に集約されるのである。
——「詩についての断片」10(1990.10「舟」61号)