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詩に何ができるか?

 遠いところに飢えた子供たちがいる。文学はその子供たちに何ができるか? 30年ほど前、この問いはヨーロッパの作家たちによって投げかけられ、私の心にも深くささったことがある。

 私は、この問いかけに対して、一市民としてなら役立つことに参加することはやぶさかではないが、詩を書き、詩を発表するものとして、詩で何ができるかということになると、私は私に忠実な詩を書く以外にないということを、30年たった今でも繰り返さざるを得ない。つまり、私は、詩を飢餓救済アピールの一手段として利用することを、私自身に対して認めないのである。

 

 詩やさまざまな芸術が、古来、作者の感性や意志、思考を伝え、それに接する人たちを鼓舞する役割を果たしてきたことを、私も全面的に否定しようとは思わない。戦争に際しての民族意識の昂揚や、あるいは、核廃絶、戦争反対アピールなどのために詩や芸術が利用され、それなりの役割を果たしていることに目を閉ざすつもりもない。

 また、詩や芸術が、結局は個を超えた普遍性にあるということも、私は知らないわけではない。

 だが、詩や芸術は、既成のいかなる観念からも生まれるものではない、ということを私は強調しておきたい。

 詩や芸術は、観念からではなく、生きている個の生ま身の感性から生まれる。

 詩や芸術は、個の深部(体験)から生まれ、ひそかに別の個の深部へ重なっていく。この重なり、共有が詩や芸術のもつ普遍性であって、普遍性が何らかの観念として詩や芸術の前にあらかじめあるわけではない。

 

 詩や芸術において、普遍性とは当の作者においてすらあらかじめ定かであるわけのものではないのである。

 

 *

 

 一篇の詩を引用しよう。

 

  彩られた肖像(全文)

 

 夜は

 どきどきした心臓のようでした

 

 それから

 霧のなかに時どき男たちがあらわれ

 一言ふたこと

 いい寄ってきましたが

 どうするのでもなくまた

 そのまま行ってしまいましたの

 

 少しして

 あかるいウインドの前では

 あたしどちらに行こう

 と考えたものです

 

 歩きはじめると

 操車場の方角では

 空気が

 オレンジ色に燃え

 機関車が

 シュウシュウ音立てているのが

 わかりました

 

  朝

 はまだでした

 

 これは、朝鮮戦争の頃、私が夜行列車のなかでノートに書きつけたものである。高知から東京へ、大阪を過ぎる頃は堅い座席でからだが痛くなっていた。鈍行列車で30時間、だが、この時間は私に実に多くのことを考えさせてくれた。私があえてここで私の詩を引用したのは、この詩の書かれた情況を私がよく知っているからである。

 私は、当時これを何かの目的をもって書いたものではない。“何を書こうとしたのか?”と問われると、私には“わからない”と答えるしかなかったであろう。事実、私のこのような詩は、ナンセンスで不まじめだといわれたりもした。私自身も、有用性においてこの詩が何かの役に立つとは思っていなかった。だが、ひとつだけ私にいえることがあるとすれば、この詩には当時の私が比較的いつわりなく出ているということ、私に近い詩ということで私にとっては否定しがたい詩であるということである。

 何かわからないけれど確かに私がいるという詩、私はそのような詩を私に望む。

 さまざまな正義や、美や、観念や、サンチマン、自分の思い込みや、他のおもわくからも遠く離れたところに、まるで忘れ去られたように立っている自分、そのような自分がふと作品のなかに全面的にあらわれていたら、最高だと思う。

 そしてまた、そのような自分において、詩に時代が投影されていないというわけでもないのである。「彩られた肖像」を書いたとき、私は時代を書こうと意図したのではない。だが、それから30年以上もたった今読み返してみると、そこに色濃く時代が影を落としているように思える。

 時代や、あるいは戦争をテーマとした詩を当時書いていないわけではない。だが、そのような詩は、30年もたてばいささか薄くなっているように思える。

 この差は何だろう。詩や芸術は、作者の計算をはるかに超えたものだ、ということを物語っているのではなかろうか?

 詩や芸術は、20年、30年、50年たってみないと、本物かどうかはわからないものではあるまいか? 

 よい詩は、50年たってもたった今書かれたようにフレッシュなものを持っている。たとえば、左川ちかの「昆虫」を読んでみるがいい。そして、それはなぜかを考えてみると、詩や芸術の何であるかが少しは見えてくるのではなかろうか。

 

 *

 

 詩や芸術に何ができるか、という問題も、50年、100年という時間のなかで考えてみるとよいであろう。

 私は詩を作る人間として、詩は私自身の住処、私の存在の在り方、つまり、何かを伝えるための手段ではなく目的である、と思っている。

 私の念願は、作者の感性や、思考や、意志を伝えることにあるのではなく、私の詩に接する人たちの感性や、思考が変革され、新しくなることである。習慣や、因襲、管理や制度のなかで、もろもろの観念に束縛され、いびつにいじけ、硬化し、麻痺し、あるいは、ボロボロになった人たちの感性や意識、思考に驚きを与え、フレッシュな生命あるものによみがえらせること、私の念願はこれに尽きる。

 

 政治家とちがって、詩人や芸術家は現実の変革に対して非力だ。だが、現実を覆いかくす硬化した観念や、常識や、生命を抑圧する形骸化した因襲や制度に対して敏感であり、そうしたものをはね返す本能的ともいえる力を持っている。

 そしてまた、民衆は一見従順で、何も知らないようにみえても、不満や不安はつねに蔵しているものであり、観念や、制度や、因襲が自分たちの現実にそぐわないものとなれば、それをひっくり返す欲求や、エネルギーもまた蔵しているものである。これを甘くみる政治家や芸術家は、必ず手ひどいしっぺ返しを食うことになる。

 たとえば、真に生命的なものに欠ける様式化した作品は、一時的に売れても決して長つづきはしない。

 

 ゴッホの画は、直接飢えた子供たちの飢えをいやすことはできないだろう。だが、それは人間存在の、生きることの根源を、つねに照射しつづけている。それは、私たちの目を洗い、生きることの何であるかを私たちにつねに問いつづけている。

 一本のヒマワリを描こうと、反核の詩を書こうと、素材で詩や芸術の優劣を決めることはできない。要は、それを書いた人が詩人=人間であるか、ないかだ。

 ——「詩についての断片」9(1990・7「舟」60号)