つめたい夜が滴り落ちる。汽車はごうごうと走ってゆく。わたしはそのなか
に坐を占める。しかし、わたしはわたしの行き先をきこうとも欲しないし、そ
れがどのようなことかを知ろうともしない。かつてわたしが生きてゆくうえに
わたしの生についてどのような問いがあったか。――樹木が、橋が、道が、家
々がとびさってゆく。わたしは、ただそれらを見、それらを了解するにとどま
るだけである。
めざめはふいにやってくる。めざめとは、世界の活動をよそに安眠をむさぼ
っていたおのれに気づくことだ。めざめはまた風のようにやってくる。かなし
みに満ちた肉体をはためかす。〈ウオオオン・・・〉という叫びが起きる。風が
、つゆが、太陽の光が、ほほえみが、ため息が、そのうえに落ち、きらめいたり
舞いあがったりする。わたしたちは鳥のようだ。そのうえをとびまわる鳥のよ
うだ。幾千羽の鳥のようだ。世界をあるがままのものとして受けとめよ。そこ
にあるかなしみ、そこにある肉体、その一瞬に過ぎゆくもののうちに身をひそ
めよ。
わたしたちは、かなしみからかなしみへと移ってゆく。わたしたちは世界の
うえにおのれの身を重ねる。わたしたちは世界のうちに浸透し、それと交渉を
もつ。おのれを拡散しておのれを世界のうちに消散せしめよ。〈世界は、わた
しのもの!〉というために。わたしは世界の果てるまで消えることはない。か
つてわたしが味わったもの、聞いたもの、見たもの、ふれたもの、それたいっ
さいは世界の果てるまで消えることはない。わたしたちは、この世界で失うも
のは何ひとつない。
それはしずかな夕暮れであった。目にふれるすべてのものが、わたしたちの
生の純一性をあかしていた。燃えている炎は、そのままわたしたちの生の象徴
であり、その混沌と多様さのなかに燃えている炎の純一性は包まれていた。溢
れうずまき、流れるなかに生まれるものがあった。滅びのなかに新しいものが
準備され、生あるものはつねに新しく、新しくなりまさってゆくのだった。窓
から見える風景は、一度はわたしたちの後ろにとびさり消えてゆくが、それらは、
わたしたちがだれもいなくなったとき、ふたたび何ひとつ欠けることなくもと
の姿をもとの位置にとりもどすのだった。
時よ、もっと早くまわれ。すべてのものをもっと早く運ぶのだ。そうすれば、
わたしたちの生はもっと緻密なものになるだろう。わたしたちの感動は、もっ
と一貫性したものになるだろう。
宇宙が、また人生がわたしたちに見せてくれるドラマなどたいしたことでは
ない。それらがわたしたちのうえにもつ権限などたかが知れたものだ。過ぎゆ
く事物の一瞬の顔を、わたしたちの祖先はすばやく捉えるすべを知っていた。
わたしたちの生に与えられた能力を、かれらはもっと有効に使うすべを心得て
いた。わたしたちが生きてゆくうえに必要なものとそうでないものとを、かれ
らははっきり区別するすべをわきまえていた。
ある冬の夜のこと、わたしは、自分がそれまでこれこそものの道理だと、真
理だと思いこんでいたいっさいのものが瓦解するのを見たことがある。そのと
き、わたしはそこが寒い北風の吹き込む屋根裏部屋であろうと、百千の美女に
かこまれた王宮の広間であろうと、大洋のまっただなかであろうと、草原であ
ろうと、街角であろうと、そうしたことが何ひとつわたしたちの生を束縛し、
制約するものでないことを知った。わたしたちは千万の生のうえにただひと
つの生をもつものである。
一匹の蛾がいま、わたしの目のまえで死んでゆく。わたしはじっとそれを見
つめながら、何かがわたしのなかに反応するのを覚える。何かが閉ざされたわ
たしの窓をこつこつと叩く。何かが、千金の重みでわたしのなかに沈んでゆく。
わたしたちが住むこの世界にはいつも純白のノートが開かれていて、そこに
はこの世界で起きたどんなささいなことも残らず書きこまれてゆく。それは、
時としてわたしたちがベッドにもぐり、電灯を消して眠りにつくとき、始めは
おぼろに、しだいにはっきりとそれを認めることができるものである。
もろもろの死がわたしたちの生について教えてくれることについて耳を傾け
よう。わたしたちが共に住む場所、共通の世界がある。死んだ友、花々、雪、
小舟、わたしたちがふれたすべてのもの、すべての人々、風景、それらいっさ
いが共に住み置かれている場所がある。わたしたちはそれを探求しなければな
らぬ。わたしたちは、わたしたちがもつすべてのものを、もう決して疑う必要
はない。あなたも、わたしも共にひとつの生命をわかちもつものである。あな
たは、生きとし生きるものがもつただひとつの生命をわかちもつものである。
あなたは、あなたの頭が描き出すいっさいの妄想、とりわけ、あなたがそれで
もって事物のすべてを律することができると思っているもろもろの法則や、秩
序を放棄すべきである。そして、あなたは、自分がこの宇宙でもっとも遅く生
まれてきたものであることを、まだこの世界のほんの幼児にすぎないことを知
るべきである。
××よ、わたしはあなたを見る。わたしは、もうそれだけでわたしの生命が
何にぞくしているかを知る。わたしがあなたを見、あなたに従って生きるとい
うことは、それはよいことだ。わたしは、いない。わたしとあなたという二個
の意志は、わたしたちの生命が成就されるための、この宇宙の意志が果たされ
るためのひとつのチャンスにしかすぎない。
黙せ、きょうひとりの男がもった体験は、すでに他者のなかに入り込み、わ
たしたち共有の体験である。わたしたちの体験は、行為は、すべて生きるもの
の名によっておこなわれ、世界の果てるまで失われることはない。それが、か
りに当事者であるあなたにとっては忘れられたことであっても、何ひとつこの
世界から失われるものはない。
黙せ、それはよいことだ。すべてが失われることは。喜びも、かなしみも苦
悩も、高貴な思いも、いやしい思いもすべて失われることは。それはよいこと
だ。わたしたちが何ももたず、無一文で、徒手空拳であることは。この何もと
どめぬ空間に、きょう何かがはぐくまれてゆくことは――
この何か、この、風のなかにはぐくまれ蓄積されてゆく何かを見よ。このわ
たしたちの行為がなされてゆく空間について考えよ。わたしたち自身の肉体に
ついて考えよ。ここに、わたしたちのひとつひとつの行為を通じてより確固と
なってゆく存在がある。あなたの、苦悩と祈りのなかに育てられてゆく肉体が
ある