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感覚と想像力

 

遠くへ達するために書く、というのは、詩人にとっておそらく間違ってはいまい。

 ジェイムス・ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』の主人公が、最後の方のページでつぶやく“われに百万遍の経験をたまえ”というのも、詩人がより遠くへ達するための希求にほかならない、といえよう。

 

 遠くへ達するための入り口はどこにあるか? それは、無数にある。あなたの目に入るもの、耳に聞こえるもの、皮膚に感じるもの、それらすべて、その一つ―つが入り口である。

 その入り口には、あなたが注意してみるならば、映画『愛人ジュリエット』のマンホールのふたに記されていたと同じ文字“ダンジェ(危険)”が、ぼんやりとではあるが不気味に印されてあるのが読みとれるであろう。

 想像力は、無傷の、無償の、まったく自由な翼ではない。

 想像力とは、それを一言でいうと、血みどろの海から生まれた私たちの生の証である、ということである。

 想像力は、それゆえに、この地上から何度でも不死鳥のように生まれ変わらねばならない。

 

 感覚的生から切り離された想像力など何ものでもない。

 想像力は、人間の偉大さを証するおそらく唯一のものと思われるが、しかし(それゆえにこそ、といってもいい)、想像力の絶対優位とか、生から切り離された絶対的に自由な想像力というようなものは、想定しない方がいいであろう。

 想像力から生じたものに、一定の、共通のパターンはあり得ない。もし想像力の世界にそのようなパターン化が起きるとすれば、それは生の衰弱を意味する。想像力の本質は、発見と、驚きであるからである。

 芸術も同様に、その様式化は作家の衰弱を意味する。

 

 あらゆる芸術は想像力の産物である。芸術は想像力に属する。だが、この想像力は生に属する。生から自由な想像力などどうしてあり得ようか。想像力の生んだものは、この生の刻印を背負う。というより、もっとはっきり言えば、想像力の世界こそ私たちが真に自己自身のものとして生きた世界といえるものであるだろう。

 芸術が人間的といえるのは、そこに想像力を生きた人間がいるからである。

 

 “人間的”という場合、感覚の生はその入り口にすぎない。血みどろの海は、人間の母胎であるが、詩は樹木である。

 

 毛虫が、蛹となり、チョウとなる。花から花へと飛びまわるチョウをみて、私たちは蛹を意識するわけではない。チョウ自身もおそらくそうであろう。チョウはほとんど蛹ではないし、毛虫ではない。チョウはチョウである。しかし、このチョウはかつて蛹だった、毛虫だったものと、完全に無縁のものといえるだろうか。チョウは、ひょっとしたら、毛虫あるいは蛹を全面的に生きているものであるかもしれない。

 だが、毛虫はどうだろう。毛虫はそのままでは空飛ぶチョウと同じとはいえない。

 

 チョウを詩人とすると、その前身が毛虫であることは注目に値する。詩人は、その抱える内部の暗黒の世界において成長し、世界を飛ぶものだからである。

 

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 ウィリアム・ブレイクは“自然は、想像力の敵だ”といった。“自然の力は、いつも私の想像力を弱め、殺し、消し去った”といっている。想像力に関して実に明快な言葉である。私はこの“自然”という言葉をいつも“感覚的な生”と置き換えて考えてきた。

 “自然は、想像力の敵だ”というブレイクの言葉を、私も否定はしない。なぜなら、私の詩作行為も、感覚と想像カの絶え間ない相剋のなかにあったからである。ブレイクは、“敵だ”というほどにも感覚の絶大な力を知っていたのであろう。

 事実、ブレイクの画も、詩も、たったいま暗黒の血みどろの世界から引き上げられたかのような相貌を帯びているではないか。それは、蛹からかえったばかりのチョウを思わせる。

 

 ブレイクはまた、“真のヴィジョン作家は、細部を省略しない”といっているが、私はこの言葉にも注目する。

 “細部を省略しない”ということは、目に映じたとおりに描くということ、つまり、単なる想像では描かないということ、観念ではなく、事実を事実のままに描くということ、しかも、重要なことは、作家は描こうとするその現実にまず出遇っていなければならないということを意味し、なおかつ、安易に様式化されたいわゆるイミテーションの幻想作家らを、ブレイクはこの言葉によって徹底的に否定しているのである。

 “真のヴィジョン作家は、細部を省略しない”という言葉は“想像力的世界を、頭だけででっち上げるな”という警告を含んでいる、この点に私は注目したいのである。

 

 ウィリアム・ブレイクにとっては、想像力、あるいはヴィジョンの世界という特別の世界はなかった、といえよう。なぜなら、ブレイクはそこ以外に住むところがなかったにちがいないからである。

 すなわち、いかなる観念でもなく、ブレイクにとってはリアリティがすべてであった、といえる。

 ここに、昨今の凡俗で、怠惰な売れっ子幻想作家と、ブレイクのような自己の生を賭けた本物の想像力作家との基本的差異があることに、私たちは気付くべきである。

 前者の在品と称するものは、おおむね以前にだれかが生み出した思考や、パターンの繰り返しであり、おどろおどろしいホラー映画でも、退屈であり、こっけいであるものが多い。

 リアリティは、ただその作家が生きたところにしか生じない。

 両者のこの差異は、芸術の真価を問う鍵であるといってもいいすぎではないであろう。

 

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 遠くへ達するために書く、といったが、感覚も、想像力も、それが有限の個の生命体に属するという点が重要である。

 もし人間に無限の生命が与えられているならば、想像力は必要なかったかもしれない。決して死なない存在に、遠くへ達するという願望などは不必要であるし、生じないであろうから。想像力は、それゆえに有限の、死ななければならない人間の悲劇性を色濃く背負っている。

 

 “人間とは、距離への情熱である”といったのは、アウグスチヌスだったと思うが、なんと美しい言葉であろうか。

 美も、恐怖も、善も、悪も、恋も、友情も、平和も、自由さえも、想像力のないところには生じない。

 想像力は、人間の様々な能力のなかの一つの能力であるというより、人間が人間であるために不可欠な全人間的能カであると考えたい。つまり、想像力は、死すべき人間の、ここにあらざるものへの希求、全人間的生への欲求と切り離して考えられるべきものではない、と思うのである。(「月刊•新刊情報」連載<絶望のなかの希望>7参照)

 

 想像力の役割は、現実の認知にも不可欠だという点も見逃されてはならない。想像力が失われると現実も失われる。現実への参加は想像力をとおしてであり、想像力なくしてみずからの現実もあり得ないからである。

 方向を見失った感覚的生、それはいったいどこへ行くであろうか? 

 最近あらわになった日本の文化、社会、人間の危機的状況は想像力の衰弱にその大きな源があるように思われる。詩も、芸術も、その例外ではない。

 

 ——「詩についての断片」8(1990・4「舟」59号)