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洪水

 

 洪水というものは、それもまた、人間の頭に宿る幻想のひとつである。

 人間が抱いた幻想の数はとても数えきれるものではなく、スウエデンボルクは〈天空は一個の巨大な人間である〉といった。一本の草木、家具調度の類にいたるまでそれらはほとんど無数である。そして、それらは人間のはてしない願望を語ってあますところがない。――ひとつの王国の建設、突然の災害、流竄、荒野の夢のなかに見る花、そしてまた別の土地へ。

 

 ある朝のことわたしが窓をあけると、海はもうそこまできていた。海は、いうなればわたしのほうにからだを乗りだし、立ちどまってわたしの返答を待つというふうだった。わたしはしかしまだ夜着のままだったし、それにこのあまりに唐突な来客にとまどってただほほえむだけだった。

 すべては、ふいのでき事だった。かつてわたしが見たもの、わたしが聞いたもの、わたしのこころをそそり、わたしを捉え、わたしをうちょうてんにさせたもの、わたしのこのささやかな生活にうるおいと、希望と、豊かさを与えてくれたいっさいのもの、それらはいま気がつけば、あとかたもなく消え失せていた!

 この突然の変化はどのように説明すればよいのか? なにもかもわたしには納得いかなかった。すべては、山のようにのしかかっていた。それははてしない予測も、質問もまるで許さないはげしい火箭のあらしのようであった。それはもうかつてのように自分の身を寄せるものもない、ひとたびはじまったら終りを知らぬ永劫の苦難にちがいなかった。少なくともいま、わたしにわかることはこれだけだった。

 わたしの視界は一変し、暗い、おぼろなものに包まれた。わたしは、いっさいの事物からとり残され、どこへともなくただよい始めていた。

 

  まっ暗いやみのなかに巨大なほのおが燃えていた。あ

  れは、なんだろう? しろいものが、やみのなかでそ

よいでいる。まるで木の葉のように…あれは、わたし

の友人たちだろうか。じっとり汗を流し、声も立てず

身をよじっている。

 

わたしはそれを見、それらのそばを通り過ぎてゆく。

 

 ほのおは燃えさかっているが、それはすべてを滅ぼす

 みなもとでしかなかった。よろこびは憂いに、希望は

 絶望に、勇気は怯儒に、そして、わたしたちがいまま

 で正義と思い、美と、真理とあがめてきたいっさいの

ものが、急速に没落し、衰えてゆくのであった。

 

 手につかむものとてなく、わたしは落ち、めしい、溺れる。その間にも、わたしの胸は疑惑と、飢えと、恐怖に責めさいなまれるのだった。

 

 ここに、この一点に、わたしの答えなければならないものがある。絶望も、希望も、憂愁も、それらすべてが答えなければならないものがある。それを、この一点を、わたしたちはわたしたちの生の始めに持ち、しかもそれに答えるすべもなくわたしたちは、橋のうえに、キャンプ用のテントのなかに、恋人とのしとねのなかに生きるのである。

 

 わたしのうしろ、わたしの部屋のなかはけさ戦争だった。机や、いすや、何十年も使いふるした寝台や、花びんや、本棚がところかまわず雑然と、重たいカーテンのかげにほこりまみれになっていた。