わたしは汽車に乗ってS山脈を越える。雪は、黒い岩のあいだに、沈黙の樹林は川のむこうに。そして、わたしたちは窓によってへだてられたこちら側。タバコの煙と、談話と、スチームの熱に上気した世界。
いま、走りとびさってゆくものは、幻影の雪ら。樹木ら。わたしたちはみな同じ空気にひたされ、それを呼吸しながら、しゃべり、くだものの皮をむき、グラスをほす。おたがいが発散する悪い夢におかされ、長い時間がたつうちにわたしたちの頭髪は抜け、目の玉はとび出さんばかりである。
一方、わたしたちの肉体は、そして、すべての真実なるものは、こうしたわたしたちの饒舌や陶酔とはかかわりなく、つめたい、はるかな谷底にじっと横たわったままだった。
午後になって気温はますますくだり、ついにはげしい吹雪になってしまう。きびしい寒気のなかにとり残されて、わたしたちの肉体もまた見えなくなってしまう。
失われた肉体たち。それは、あの幻影の雪ら、樹木らと共に、すでにわれわれとは異なった空間で生き始め、息吹き始めているのだろうか。わたしたちはそれからも、さらに多くの橋を渡り、トンネルをくぐり、もうずっとまえからいま自分がどこにいるかもわからなくなってしまう。
夜がきて、大きな闇がわたしたちと世界を包むとき、走る列車の音だけがわたしたちの耳にひびき、わたしたちは暗い窓ガラスに映った自分の姿をまるでそれが自分の運命ででもあるかのように見出す。
かくて、わたしたちの大半はいま眠っている。わたしは、だれにともない手紙を書き始める。――
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すると、あるかなしかの声が聞こえてくる、〈アイイイイイ…〉と。遠く、はるかに遠く、かん高く、ながく、そうしてそれは、しだいに鋭く、はっきり聞こえてくる。あの、昼間見た山頂に立って、いまわたしのこころに呼ぶ声は、ああ、それは、いったいだれのものなのか。
(注)いつの日かわが魂を、ちえの樹のこかげ、
おん身のかたわらに休ませたまえ…
ボオドレエル「魔王連禱」より