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赤いブラウスの少女

 わたしは、それについてなにかを答えなければならないのを知っていた。しかし、それにしてはわたしというものはあまりに卑小だった。わたしは捨てられた紙のきれはしにもひとしい存在だった。たとえ、一分一秒でもいいから、わたしはそれに対する回答をのばしたいと思った。それからわたしは、それがどのように卑劣なことであるかを考えてみた。はずかしさのためわたしの生活はまっ黒になった。

絶望と、ときどきは思いあがった怒りのために目がくらみそうになりながらも、わたしはしょうこりもなくまたわたしを生かす口実を探すのだった。わたしが、あの赤いブラウスの少女を発見したのは、そうしたある寒い冬の日の午後であった。わたしはその頃教師をやっていたので、まだこれから採点しなければならない答案をいっぱいつめたかばんを抱え、いつものようにそのままあてもなくほっつき歩き、通りすがりのコーヒー店であるその扉をおしたのだった。

道路には水のような空気がただよっていた。コーヒー店の扉は、さざなみがうち寄せるなぎさであった。(ところで、わたしがいま発見ということばを用いたのは、わたしはまだそのとき人生というものに若干の期待も持っていたし運命というものも信じていたからだ。わたしはこの生の途上で、目にふれるちいさなもののうえにとどまり、身をかがませるのが好きだった)このとき、世界は急造のサーカス小屋のようになって、そのてっぺんのあたりからキラキラ光る氷の結晶のようなものが見え始め、そのきっさきが、まるでもうペスト患者みたいにまっ黒なわたしの内部までさし込んでくるのだった。

わたしは長いあいだひとつのボックスに坐っていたが、やがてわたしの向かいあった部屋のすみに場違いに大きな電蓄がおいてあって、そのそばにひとりの少女が立っているのがわかった。だれも、わたしよりほかにそれに気づいたものはなかったと思う。なぜなら、そこは黒いゴツゴツしたものにとざされた空間であったから。ひとつの神秘がそこにあった。見ていると、彼女は間断なく過去のほうへ流されていた。そこは、塩の結晶する洞穴の入り口であって、そこにはわたしたちがずっと前に知った雪や、舟や、車などが、かすかなそれとわからぬ薄明のなかに見えていた。彼女はいつ、どこからどうやってここへきたのか? 彼女の顔にもざらざらした塩の結晶が見られた。それは、手をふれるともろくも崩れおちるはずのものであった。ふるえる指をその顔に近づけるとそれはさらさらと地面にこぼれ落ちた。地面に落ちた塩はすぐ水がやってきてとかしてしまった。わたしにはそれが、すべての人間の顔に見られるものだと思われた。わたしたちが口をききあうことのできない原因がそこにあるのだと思われた。たえまなくわたしは、彼女の塩を落としていった。

 わたしが彼女から塩を落としてゆくにつれて、貧しい、ひよわな彼女の肉体のしたに、もりあがるうねりのようなものがあって、それがしだいにわたしのほうにも伝わりひろがってくるのがわかった。

 ついに、そこに大きな宿命的な海が現われた。海ははじめ、あかみがかったクリーム色をしていて、よどんだ湖のように思われた。それは悲しみだった。悲しみが、わたしに吐き気をもよおさせた。わたしは、人間のひふのしたにこれほどの悲しみがあろうとは夢にも思ったことがなかった。それはわたしの胸をはりさけんばかりに満たし、そうして、わたしはそのなかで、わたしたちの新しい朝はもう二度とやってこないのだと思った。

 海は大きく変わっていった。クリーム色から褐色へ、褐色から灰色へ、灰色からみどりへ、紺青へ、紺青からこいあい色へと変わっていった――

 わたしたちの夜がきていた。彼女はもうどこにも見あたらなかった。われわれの夜のなかで、だれかが、大声で叫んでいた。〈おおい、それはおまえのものだ。おれたちのものだ〉いつのまにか、わたしのまわりにはさざなみが立ちわたしは流され始めていた。わたしの目はめしい、わたしはどの方角に流されていくのかわからなかった。しかし、わたしには、彼女の肉体が意外にもわたしの間近にあることだけはわかった。〈おおい、それはおまえのものだ。おれたちのものだ〉わたしはあえいだ。彼女の黒い髪、濡れた目、濡れた舌…。わたしは彼女に近づく。わたしのからだをいっそう彼女のそばに近づける。大きな波がやってきてわたしを彼女からひきはなす。わたしはからい水をのむ。すると、また別の波がやってきていっそうわたしたちを近づける。わたしはこうして、すべてのものがこの暗い汐の流れのなかで生きていることを知る。