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夜明け

わたしたちはいま、わたしたちの感覚と想像力がとけあう壮大な夜明けについて語ることができるだろう。

 

樹々のうえの空がようやくしらみ始める頃、物音ひとつしない町の通りを一台の荷車がやってくるのが見える。それは、まだぐっすり眠っているわたしたちには、ひじょうにとおいでき事のようにも思えるだろう。家々の扉もとざされたままだ。くすんだいらかも、よごれた塀も、すべてはとおい世界のことのようでもあり、それはまた、わたしたちが目を覚ましたときに見るきのうの事柄と同じようなかたちさえすでにとり始めている。また、まだ朝もやのはれやらぬ湾の奥ふかく、小舟から網をうつものがある。葦のしげみから、ぱっと水鳥がとび立ち、岩から岩へかにがはってゆく。(わたしたちの卑小な観念よ。思想は、ただそれでもって自分の生を律するためにある。それが表面の事柄であろうとあるまいと、そんなことはどうでもよいのだ)

 それはともかく、貧しいものも富んだものも同じ眠りをねむり、悲しいものはわずかばかり悲しく、若ものはまたそれにふさわしい夢を見ている時刻、まだ太陽が昇らぬ夜明けのみじかいひとときは、ちょうど宇宙がまだかたまらぬ原初の混沌のときに似ている。わたしたちの体験は、そのひとつひとつがとき放たれようとしながらも、まだ未分化の状態で、しかも、ひとりの夢はもうひとりの夢に重なりあい、まじりあっている。そして、太陽が昇る時刻が近づくにつれ、ますますはげしく立ち昇る水蒸気のように、わたしたちの大地もますますはげしく夢の気泡を発散させる。よなかにみまかった敬虔な寡婦の魂はすでに昇天し、自殺者の魂は、まだ入り口の扉のかげでためらっている。恋と戦争はどうどうと表通りを手をたずさえて横切っていき、その後から、歴史上のさまざまな人物が従っていく。やりを小脇に抱えた武者、女や子どもたちをまじえた難民のむれ、僧、十二ひとえ、千文字をたずさえた外国の使者ら。

 このような町の通りを、でこぼこのペーブメントを右に左にごとごととよろめきながら一台の荷車がやってくる。それは、大地がまだ朝もやに包まれているとき、やがて太陽が昇り燦然とそれを輝かすときまで、それはちょうどわたしたちの夢の薄明を華麗な花たばがぬっていくように通ってゆく。そして、それが通過した後には、もうなにも残らない。やりを小脇に抱えた武者も、難民も、僧も、十二ひとえも、千文字をたずさえた外国の使者らも。そこにはただしらじらとした空気がただよっているばかりである。

 わたしたちがそのゆき先をたずねるまでもなく、ふいに頭上できしむ音がする。ひとつ、またひとつ、つぎつぎに家々の窓がひらかれ、そこからきのうと同じ頭がつき出されあいさつをかわす。それは、きのうとまったく同じことばであり、きのうときょうの違いなどもうだれも疑ってみようともしない。その間にもわたしたちの車はさってゆく。小舟は、わたしたちの視界からすでに消えさった。車も、舟もそれらはもうわたしたちの記憶、とおい夢になってしまった!(忘れる、ということはわたしたちに備わったよき能力である。それはわたしたちの受けた苦痛を減じてくれるからというより、わたしたちに忘れるということによって、一度わたしたちのうえに起きた事柄をすっかり自分の肉の一部と化してしまうことができるからであり、そうなった以上、わたしたちはそれがかりにどんなに必要なことであっても、もう勝手きままにそれをとり出すことはできないからである。そして、それはわたしたちの生活にとって実際的なことでもあり、合理的なことでもあるからだ)

 それにしても、わたしたちの荷車は? 舟は? あの夜明けの数刻だけわたしたちの夢にたちまじって消えていったあれらのものは? それは、まだ眠りつづけるわたしたちの肉体を支配する宇宙的生命と、あわれにも孤立したわたしたちの日ごとの体験とのあいだをぬってそれを二分していった。ここにはもう手を触れて確かめられるものはなにひとつ残っていない。