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芸術は形である。音楽は音を扱うことであり、詩はコトバを扱うことである。音楽においては音がすべてであり、詩においてはそこに用いられたコトバがすべてである。音も、コトバも最終的にはひとつの形となり、聴衆または読者のまえに提供される。それが作品である。
作品または芸術についていい得ることは右に尽きるが、これが意味するものは慎重に考察されねばならない。
ひとりの生きた人間によって生み出された形は、単なるバランスや、美ではない。形は何よりもまずメッセージである。
メッセージとはこの場合、作者の頭のなかにある意味の伝達を意味しない。形は、意味を運ぶための手段、道具ではない。
一篇の詩は、作者の観念や心情を伝達するための単なる手段、道具であるわけではない。
形は、まず存在しなければならない。形は作者の存在証明としてある。作者が百人いれば、形は当然百種類できる。
形は意味を伝達するための手段ではなく、意味そのものである。形は、作者の生を伝えるための手段ではなく、作者の生そのものである。
作品は、メッセージを伝えるためのものではなく、作品すなわちそこにある形こそがメッセージそのものである。他の何らかの観念、様式が加われば、その形は希薄なものとなる。
形は作者以前にあり、作者はその形(容器)に自己を満たし、形はその内容を伝達するという道具では決してない。作品=形は存在によってうながされる。
作品は、存在の在り方である。
作品=形は、存在=生の必然的帰結である。従って、それに接する人はその必然性をみなければならない。百の異なった作家の作品を前にして、百の異なった必然性を見出すのは容易なことではない。まして、それが時代や地域を異にしている場合、それを探るのは至難のことである。しかし、それを端折って作品に接することは殆ど無意味であるが、残念ながら今日の批評家の大半はそれを見ようともしないし、それを見る能力さえ失っているといわざるを得ない。
鋭敏な読者なら気付かれるだろうが、この能力とは、シンパシーであり、直観力である。努力以前の持てるものである。
あらゆる時代のあらゆる芸術は、そのときを生きるその人のエモーション(苦痛、喜び、悲哀 etc.)も含めたそのときのその人の存在形態であり、存在を示す身振りである。
その身振りをコトバといおう。それはひとつの秩序である。
形の微細なひだひだに秘められた無数のコトバを解読するためには、もちろん人類学的、考古学的探究は不可欠のものだが、結局は、生への共感なしには読むことはできない。
芸術は、そこに在ることにおいて、その形によって、それがある限り消えることのないメッセージを発信しつづけているのである。そしてまた、それを捉える能力であるシンパシー、直観力といったものも、私たちは本来的にみな備えているはずのものなのである。
形が発信するコトバ、メッセージをいかにして読むか。それは全身でキャッチする以外にない。すなわち、シンパシーと、直観力である。そして、それは殆ど翻訳不可能で、メッセージを全身で受けとめた人はその生き方が変わることで応える以外にない、というようなものである。
形は、分析し、解釈するためにあるのではない。
形はすなわちメッセージであるから、全身を耳にして聴くべきものである、ということができよう。
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芸術は、作者の観念や心情を伝えるための道具ではなく、存在をあらわにするものであり、その在り方すなわち形が問題である、といった。
形、それは作者の全人格の投影物である。
形、それは作者の生き方、思考を全的に反映したものである。
形、それは作者の哲学、倫理である。
形は思想である。形を造り上げる技術、一枚のタブローにおける筆触も、色彩も、量感も、構図も、すべて思想である。
一篇の詩は、単なる心情のなぞりではなく、垂直的精神の投影物であろう。詩は、その意味ではあらゆる芸術のなかで最もきびしい明晰さを要求されるもの、ということができる。
詩はあらゆる芸術の核であるということは、詩は情緒であるというように短絡して考えられるべきではない。詩はこの場合はむしろ”目”といった方がより適切であるかもしれない。すなわち、いかなる芸術家にも必要なものは、観念や因襲に密着した心情などではなく、現実を直視する目である、と。
詩人はこの場合、目そのものといった方がいい。
ここで、芸術に関して最も重要な問題が浮上する。それは、芸術の一回性である。
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芸術は形である。形はまず何よりも驚きであり、戦慄である。
ピカソは”芸術は探求ではない”といった。芸術は、形の探求ではないということをピカソはいったのだと思う。ピカソはまた、”芸術は破壊の連続だ”といっている。これは、芸術の一回性を見事にいい切ったコトバだといえよう。ピカソはまた、”作家にとっては、出会い、発見がすべてだ”といっている。観念や、様式からは何も生まれない。現実との出会い、その生によって形=作品がもたらされる。作者が生きたそのとき=現実に対応するものが作品=形となって出現する。
そのときに対応するものが芸術である。いいかえると、その一回性のなかに火花を散らす生が、その形のなかになければならない。形のなか、といういい方は、この場合適切ではない。形が初めにあり、その容器のなかにあとから生を注ぎ込むというように受けとられかねないからだ。その作家の芸術=形は、その作家以前にはない。作家が存在するためには、作家がみずから作品=形を造らなければならない。しかも、その作家のあるときの作品がいかにすばらしい快心のものであっても、次のとき、その作品を自己模倣することは全くナンセンスである。次のときには、そのときを生きた作者の生に対応した新しい形=作品が生まれなければならない。形はただ一回のそのときが生み出したものなのだから。
芸術はかたちである、ということを、この一回性において考えると、芸術行為はきわめて厳しいものということになるが、あながちそのようなものでもない。人はみなその瞬間々々を一回きりしか生きられないし、その一回きりの生を可能な限り十全に生きるというだけのことなのだから、それを喜びと思う人にはとても楽しい行為ということにもなるのである。
芸術修業はきびしい、という人もいるが、それは職人世界のことだろう。技を磨く職人修業は形にたずさわる人にはかかせない。クラフツマンシップを持たない人を芸術家というわけにはいかない。しかし、クラフツマンシップだけでは芸術家とはいえない。
くり返すが、芸術家とは形の探究者ではなく、形の創造者のことである。重要なのは、リアリティ、そこにある生である。
感覚の鋭いきらめき、その瞬間に生があり、存在がある。同時にそれは、蘇生でもあり、自己発見でもある。作品はまずこの新しい生を所有しなければならない。
”発見がすべてだ”といったのはアポリネールもそうだが、彼もまた過去の衣裳を脱ぎ捨てて、全感覚を現実に向かって開いた真正の詩人であった。彼は、目に入るすべてを詩にすることができる詩人であった、といえよう。
”毎日が祭だ”といったのは、A・ランボーであったか。幼いとき、私たちは誰でも日々目に入るものが新しく、心をときめかせ、祭であったという記憶をもつだろう。もろもろの観念や制度が、また、みずからの媚や、へつらいや、卑小な優越心といったものが、いつのまにか自分をがんじがらめにしていはしないか? それらからの自由、何ものにも曇らされぬフレッシュで、ヴィヴィッドな目を持たないで、どうして自由な、新しい作品を生み出すことができよう。
芸術は形であるということにおいて、それが新しいか、古いかということは、決して二義的なことではなくて、一義的に重要な、殆ど決定的なことであるといえよう。
新しいということは、芸術家にとって最高の賛辞であるはずであるし、また、実際にそうでなければならない。
新しくない芸術がどうして生き残れよう。心臓の鼓動の聞こえない、死んだがらくたを、どうして人々が愛せよう。
形のみにこだわる作品を推奨したりする人たちに、芸術家の生は絶対にわかることはできない。
芸術において、新しいということは、そこに新しい哲学(思考)、新しい倫理(生き方)があるということである。新しい芸術=形は、新しい思想である。
ゴーギャン、セザンヌは、新しい哲学、倫理、思想であるがゆえに、その形は不滅なのである。
芸術は形である、といったが、芸術において形がどうして単なる形であり得よう。
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詩はコトバがすべてである、といった。そのコトバは、詩人がいまを生きたそのときに対応するものであるはずだ。
しかも、そのコトバは、特定の権威ある人びとの専有物ではなく、ある時代、その地域に生きるすべての人びとの共有のものであるはずだ。
そして、そのコトバは日々死滅し、新しくなっていく。
コトバは、そのときを生きる人びとのものである。詩人は、そのコトバを使わせてもらっているだけで、詩人は、たとえば役所や法律家のように一般の人びとにはきわめてわかりにくい用語を用いるコトバの特権階級には、属していないはずである。
それゆえにこそ、詩人はコトバに鋭敏でなければならない。詩人は、古いコトバに寄りかかっていては、失格である。
詩人とは、古いコトバの権威を叩き壊し、コトバを活性化させる人のことでなければならない。
詩は思想である。詩は思想を盛り込む道具だということではなく、その形そのものがひとつの思想だということである。
”啄木の三行詩は思想である。”
といった故・藤田三郎氏の言は卓見である。
伝統的定型詩の人たちが文語調、旧かなに傾くのは、それ自体その芸術はもう滅んだ、ということの証左である。
自由詩形を選んだ人たちは、間違ってもこの愚を追うべきではないだろう。自由詩形そのものがひとつの哲学(思考)、ひとつの倫理(生き方)、ひとつの思想を孕んだものであるからである。この点、この国の自由詩はまだ十分に熟成しているとはとてもいえない。
自由詩にいま重要なのは、形の完成を目指すことではなく、自由詩の精神を明確にすることであるだろう。
決定的なのは、形以前の詩人の生き方である。
——「詩についての断片」5(1989年7月「舟」56号)