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存在は創造の基盤である。存在に対立するものは観念である。既成の観念から新しいものは生まれない。観念から脱却すること、これが詩人のほとんどすべてである。ほとんどというのは、存在の世界はそれ自体めくらむほどにも果てしないからで、観念からの脱却は詩人の緒にしかすぎないともいえるからである。そしてまた、感覚の全的投入によるふるえるような初体験も、それが過ぎれば次第に慣習化し、危険も、おののきもなくなってしまう。勝手知ったる我が家である。人間のいかなる体験も安全へと向かう。この安全の集積が生活である。生活とは存在を失った観念の集積箱にしかすぎない。つまり、存在の発見=初体験の持続は困難であり、観念からの脱却は、詩人が生きている限りつねに新しく求められるものなのである。
簡単にいえば、詩人は生活に慣れすぎてはいけない、ということである。
観念からの脱却とは、誤解を恐れずにいえば、生活=因襲からの脱却ということである。生活詩とは、観念詩の一種に他ならないことを知るべきである。
真の生活とは、勝手知ったる我が家のなかにはない。
真の生活とは、灼熱する生命の瞬間にしかないものではないか?
詩は、なにものも正当化しない。詩は、おののきであり、ふるえそのものである。
存在の詩は、なにものも説得しない。しかし、それは心臓の鼓動を確実に伝えている。
観念の詩は偽るが、存在の詩は偽らない。
観念の詩は、さまざまな装いを必要とするが、存在の詩はいかなる装いも必要としない。これをたとえていえば、大人にはさまざまな衣裳、装身具が必要だが、たったいま生まれた赤ん坊には、いかなるアクセサリーも必要ないのと同様である。
赤ん坊の裸身は、いかなる宝石よりも輝いているではないか。
詩と、詩的なものを徹底的に、厳密に区別せよ。真の詩に、詩的なものは全く不必要である。装身具をくっつけた赤ん坊を考えてみるがいい。
存在をとおして人は遠くへ達する。詩人にとって問題は、冒険と発見である。観念のなかで、人はなにものも発見できない。<見た>というエレメントを含まない詩には、なんの魅力もないのである。<見た>というエレメントだけでも、詩は十分成立し得る。そのような詩がほしい。しかし、そのような詩は稀である。この日常には、底知れないクレバスが無数に走っているというのに…。
奇妙に聞こえるかもしれないが、現実の真の姿はほとんど非現実にみえる。因襲が、観念が、現実の真の姿を覆いかくしており、私たちはそれを直視することに慣らされていないからである。
真の詩人にとって、この日常の生活が悪夢の連続となるのはやむを得ない。
F・カフカも、J・スイフトも、幻想文学に追随するために書いたわけではなかった。数あるカフカ論のなかでも、「カフカの宗教的フモールについて」を書いた筆者には敬意を表するが、しかし、カフカにしても、スイフトにしても、その文学の目的が風刺だけでなかったことも確かであろう。それは、観念(いかなる観念であろうとも)に奉仕する文学ではなく、現実を白日のもとにひきずり出した恐怖の書といえよう。
カフカは”書く”とはいわず、”ペンで引っ掻く”といった。
多くの風刺文学、幻想芸術が結局退屈なのは、観念の遊びにしかすぎないからである。
二十世紀のシュルレアリスム運動の偉大な功績は、存在の発見である。だが、それが公認の、安全な芸術と化したとき、それはなにものでもなくなってしまった。マックス・エルンストのフロッタージュは、一瞬の生の閃光として価値がある。ジャック・ヴァシェは書かなかったが故に、いまでも最も純粋な詩人である。擬古雅文調で詩と称するものをひねるどこかの国の世紀末詩人とは、わけがちがう。
A・ブルトンは、”歴史的に自己を正当化するな”といったが、そのブルトンでさえ第二次大戦後は歴史に埋没していった。現実=存在の全的発掘に全力を傾けたブルトンにおいてさえ、灼熱する生命の瞬間の持続は困難であったのだ。
だが、存在の全的発見=直観力の回復と、生命の解放は、文学・芸術上の一流派の問題にはとどまらない。物理学の素粒子理論が一流派の問題にとどまらないのと同様に、シュルレアリスム運動を無視して、現代の文学・芸術は存立し得ない。問題は、その様式を模倣するか、精神を直視するかである。
ブルトンは、シュルレアリスム運動を当初”精神の運動”といった。オプジェ、デカルコマニー、フロッタージュ、オートマティスム etc は、文学・芸術の方法=美への奉仕手段としてではなく、存在の証明手段としてたまたま発見されたものにすぎない。それが前者と逆転したとき、つまり、文学・芸術に奉仕するシュルレアリスムとなったとき、当初の、本来の姿は消滅するのである。
日本の戦前、戦中、戦後に、このような灼熱する生命の瞬間を垣間見せてくれた詩人、芸術家がいたであろうか?
一人の詩人の全生涯でなくても、数篇の詩でもいい、あるだろうか?
ある、といいたい。幸いなことに、それらはいまだにあまりポピュラーではない。それらは、隠れた私たち自身の現実であり、それらの詩篇に出遇うことは、私たち自身の新しい体験を意味する。水先案内人なしで、あなた自身の感性を真裸にし、あなた自身の手でそれらを探り当ててほしい。
日本の近・現代詩の歴史は、口語自由詩の開花、発展の歴史といえる。それを表現形式の変遷の歴史とみることもできるが、それを生み出した個我確立の苦闘の歴史とみることもできる。
ここで問題となるのは、短歌・俳句の定型詩に対して、口語自由詩がいかに独自の美をみ出したか、ということあろうか?私はこれに対して拙速な結論を出したくない。私は、詩は平明で、明確な日常語で書かれていれば十分だと思っているし、芸術はハーバート・リードもいっているように”過去においても現在においてもしばしば美しいものではない”(『芸術の意味』より)ということ、つまり、芸術は決して美をめざすべきものではない、ということを肝に銘じているのである。くり返すが、ここで問題となるのは美ではなくて、人間である。口語自由詩を支えてきた、日本人の個我の内実である。
口語自由詩の歴史において問題とされるべきものは、日本人の個の哲学(感性、思考)と、倫理(生き方)であろう。
戦後、主権在民の民主主義憲法ができて四十数年たった。日本人の個我は成熟したか、とは問うまい。そのまえに、この問いの前に立って、静かに戦後詩を眺めてみるがいい。観念ではなく、自己の感性を開いて独自に獲得されたどのような個の哲学、倫理、思想がそこにあるだろうか?
観念はいくらでも変えられる。それは、自身が少しも血を流さないからだ。
真の作品からは、存在が、作者が立ち上がってくる。それはまた、読者であるあなた自身でもあるのだ。それが作品のもつ普遍性というものだ。
私は、大方の心情詩を信用しない。心情で語られ、訴えられているものは、おおむね作者の思い入れ、観念にしかすぎないからだ。人は、観念に責任をもつことはなく、おおむねそれは一過性のものだからだ。戦争詩などそのよい例である。
みずからの感性を開き、みずからの目で見たものを書くこと。書くとは、この場合、自己の存在証明である。それは少しも装われる必要はなく、ただ明確であればいい。