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続・存在の詩

(朗読:季刊同人詩誌『舟』同人 大久敬介)

 人間の悲しみや喜びの感情は、おそらく痒いとか寒いとかの感覚よりは高等な領分に属するものであろう。飢えとか痛みは昆虫の世界にもある。愛や憎しみ、絶望や祈りは、おそらく人間に固有のものであろう。

 感覚は個体に属する。歯の痛みや空腹は他の人が身代わりできるものではない。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚は他の人が代用できるものではなく、共有できるものではない。感覚はその人に固有のものであり、かつ、その生を原始的領分にしっかりと繋ぎとめている。個体は感覚の闇に閉ざされている。

 悲しみや喜び、愛や憎しみ、それらもろもろの感情も、一人の心の中に生じるものだけれど、それは共有可能のものでもある。悲しみや喜び、人類はそれを共有できるし、それはホモサピエンスの偉大な能力ということもできよう。

 ところで、この偉大な能力もそれ自体では個体の飢えや痛みをいやすことはできない。空腹を愛や祈りでいやすことはできない。空腹をいやすものはパンである。出血の甚しい人はまず出血を止めなければならない。

 共有可能な感情の領分と、共有不可能な個に閉ざされた感覚の領分と、詩はこのいずれに発するものだろうか?もちろん、詩は全人間的なものであるが故に、そのいずれをも否定するものではない。しかし、結論からいって、詩はまず、その共有不可能な、閉ざされた個体の秘められた部分から発するものであるといいたい。

 

 詩は、本来的に感情の領分、情緒の世界のものだろうか?詩は情緒の世界から生まれ、情緒の世界に奉仕するだけのものだろうか? 情緒を心といいかえてもいい。詩は心の世界から生まれ、心の世界を豊かにする、本当にそのようなものだろうか? 日本の抒情詩の多くは、このような基盤のうえに書かれてきたと思われるが、詩は本来そのようなものであろうか?

  だが、心とは何だろう? 情緒とは何だろう?少なくともそれが多くの人に了解され、約束事となり、現実への適応力も失ってしまった場合、詩はそれを立脚点となし得るだろうか?

 

 感覚は個体に閉ざされている。感覚自体は普遍性をもたない。冷たい氷は触れた人にだけ冷たい。だが、感覚は偽らない。

 それに比して、感情、心はどうであろう。あなたは心が偽らないとく断言できるか?あなたは集団のファナティックな感情に与することができるか?心の教育を文部省の学習指導要領に盛り込むという。人の心は飼いならし、方向づけることができるという前提があればこそであろう。だが、それ故にこそ、そのようにあいまいな、実体のない心や感情に詩を漠然と乗せていいものか、と問いたくなる。

 詩は、そのような約束された心情や情緒の世界に立脚すべきではないし、そのような世界に奉仕すべきものでもない。そのために、感情を増幅したり、鼓舞するために詩は書かれるべきではないのである。

 

 では、詩の立脚点は何か?

 あなたの詩は、ひそかな孤立したものではあるが、確かないま現在生きているあなたの生に立脚すべきであろう。詩は、碓かな個の存在を示さなければならないし、ただそれだけで、そこにいささかの虚飾も必要ないものである。詩には、実体のないもの、偽りがあってはいけない。詩は、作者以上でも以下でもなく、まさに作者の等身大でなくてはならない。前号でも述べたが、詩にはただリアリティがあればそれで十分なのだ。

 

 *

 

 詩は、作者の感情や心を読者に押しつけるべきものではない。真に充実した詩は、ひとり孤立した空間に決して消えることのない火を燃やしているだけである。詩が読者に近づくのではない。読者が詩に気づき、歩み寄るのである。詩が読者を欲するのではなく、読者が詩を欲するのである。これは大前提であり、そのためにこそ詩は存在でなければならない。存在しない、実体のないものにどうして読者が満足することができよう。

 

 一篇の詩=一個の存在に感動し、感情移入できるのは、作者でなく読者である。作品に感動するのは(わかりきったことだが)作者ではなく、読者である。

 すなわち、読者が自発的に参加できないような作品、読者の想像力=シンパシーをかき立てないような作品は、愚劣な作品である。そしてまた、一篇の詩を拒絶するのも、そこに参加するのも全く読者の自由であって、作者ですらそこに立ち入ることは本来できないものだということを作者は知るべきである。

 

 ところで、読者にとって作品とは何か?作品は、リアリティであり、存在であるといった。リアリティといい、存在といい、それは深淵である。

 作品は深淵である。読者はそこにみずからを投げ入れ、自己自身を発見する。読者が作品を求め、作品に感動するのは、実にこのことがあるからである。

 

 このことについて、ささやかな私事を語ることを許していただきたい。

 私はあの忌わしい敗戦の年の一年間、ドストエフスキー全集に没入した。『死の家の記録」『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』etc.そして、作家の厖大な草稿メモに分け入った日日…。それは、私にとって何であったか?そのとき、私は確かにドストエフスキーを知りたいと思ったし、そのとき得たものを翌年ガリ版雑誌を作って発表したりもした。しかし、私にとって重要なことは、私がドストエフスキーを知ることではなく、私が私を知ることであった。『カラマーゾフの兄弟』が、「悪霊』が、『白痴』が、一九四五年の異国の十六歳の少年をはげしく目覚めさせ、自己発見をうながしたのである。

 

 読者は、作品を読んで作者に到達するのではない。自己自身に到達するのである。二十歳のときに読んだゲーテを、その後プロティノスや、ハーフィズや、ルーミーなどを読み、六十歳を目前にしたいま読み直してみると、当時ゲーテを殆ど読んでいなかった自分に気づく。ゲーテにはあと百年生きても到達できない、それにいま気づく。

 一篇の詩が数百年にわたって何千万人の人に読まれ得るのは、自己が自己に出遇うためではなかろうか。それは、作者がすばらしいというよりも、作者も読者もひっくるめた人間というものがすばらしいことを意味しているのではないだろうか。

 

 作者は知らなければならない。作者がすばらしいのではなくて、人間がすばらしいのだということを。

 読者が作者を求めているのではない。作者の方が読者から無限に汲み上げているのだ。いいかえると、作者は与える人、読者は与えられる人であるのではなく、作者は読者から限りなく学ぴ、得る人であるはずである。

 書くということ、作品の根源的な深い意味が、このあたりに秘められているのではなかろうか。

 

 *

 

 A・プルトン風にいえば、心情や情緒は繰り返し自己反応を起こし、体験から離れた観念の化け物ともなり得るが、感覚は体験を離れた瞬間に失われてしまう。どんな美味なものでも、喉元を過ぎればその味は消えてしまうし、その味は食べない人には全くわからないのである。

 

 一篇の詩は、一瞬の閃光ともいえる個の秘めたる体験を蔵していなければならない。いいかえると、このような詩は生まれた瞬間に、既成の美、観念、モラルを打ち破っているのである。

 

 存在の詩は感覚を重視する。感覚は裏切らない。感覚は説明できない。だが、感覚は確かに存在するし、感覚は生きている。フレッシュに、ヴィヴィッドに生きている。それは心臓の鼓動を伝えるものである。

 詩は、心臓の鼓動をもっていなければならない。だが、詩はそれだけのものではない。感覚は世界への窓口であり、感覚をとおして詩人は世界に達することを欲する。どれほど多くの観念をくぐり抜けてみても、世界に触れることはできない。A・ランボオはいった。"感覚の惑乱をとおして、自己自身を組織すること、そして、未知へ達すること"と。

 ランボオは、それを怪物を育てるようなことだといった。

 たとえば、星を見ること、花の匂いをかぐこと、これは何と驚異的で、神秘的なことだろう。この世にあるいっさいの事物を受け入れて、そのなかで変転し、変貌し、自分は何ものかになっていく。この惑乱をとおして未知へ向かう。ここに詩人の(あえていうが)成長への道筋があるのではないだろうか。

 

 感覚は生命的なものへの知覚である。生をあらしめ、つき動かすものへの驚き、それが詩の発生の源ではないだろうか。

 ピカソは"事物から出発せよ"といった。私は"感覚から出発せよ"といいたい。だが、多分これは同じことだろう。いずれにせよ、詩が観念から生まれることはないのだ。

 つねに、つねに新しく感覚から出発すること、これは経験主義を意味しない。経験主義の盲点は、いかなる体験でも過ぎ去れば―つの観念と化すことである"丘私の若い頃は…"と語る老村長の経験談義は、―つの観念、哲学、モラル、美であり、それを追体験するということは、一つの観念の学習にすぎない。感覚体験はその因襲を打ち破り、新しい生命に目覚めさせる。つねに新しく感覚から出発するということは、自己のなかに蓄積される体験集積=観念化、因襲化、自己模倣から自己を解き放つということをも意味するのである。詩は、この解放の、破壊の瞬間から生まれる。詩は、まるで鳩が飛び立つように、この瞬間から生まれる。

 私は、個のなかに発生する心情を無視しているのではない。だが、観念と化した心情、制度となった心情的世界に与することはできない。心情的、情緒的世界にどっぷりと浸った自己陶酔の文学に、詩を認めることはできない。詩は、人間精神の垂直的営為であるからだ。

 心情も蓄積され、因襲化してくると‘―つの巨大な観念と化す。心情主義も、経験主義も、ベルクソン流にいえば悪しき観念であり、それは生の抑圧の方へと傾く。

 

 文学から文学が生まれることはない。文学はつねに現実から生まれる。

 美から芸術がうまれることはない。芸術はつねに存在から生まれる。

 観念や、制度から詩が生まれることはない。詩はつねに驚きから生まれる。

 詩は直感力の産物であるが故に、詩人はしばしば神秘主義者と見誤られがちだが、真の詩人はいつでもリアリストである。観念論的マジシャンといわれたノバーリスも、鉱山に分け入る鉱山師の如くリアリストである。

 "すべての悲しい情緒は幻影である。未来は病人にとっては存在しない"(ノバーリス)。ノバーリスの『オフテルディンゲン』『ザイスの学徒』『夜の讃歌』そしてあの百科全書的『断章』は、この国の情緒的詩人には理解しがたいものであろう。ここに示されているものは、感覚をとおして未知へ向かう確かなリアリストの生き方、方法論であるからである。

 

 ——「詩についての断片」3(1989年l月「舟」54号)