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リアリティとは何か

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(朗読:季刊同人詩誌『舟』同人 大久敬介)

 

 リアリティとは何か? それはあなたが現に生きている。世界のすべてである。あなたが手に触れるもの、あなたが目にするもの、耳に聞こえるもの、味わうもの、そのすべてである。痛み、喜び、恐怖、不安、悲しみ、希望、絶望、そのすべて、あなたの持てるものすべて、それがリアリティである。

 あなたと、あなたが属する世界のすべて、それがリアリティである。

 あなたが意思しようとすまいと、あなたが属する世界はリアリティである。あなたが目を閉じようと、あなたの前にある樹木は樹木である。空気は、あなたが意識しようとすまいと、夜も昼もあなたをとり巻いていてくれる。あなたと、あなたをとり巻くすべて、それがリアリティである。あなたがたとえ忘れていようと、あなたはあなたのリアリティの真っ只中にいる。

 あなたが呼吸する世界、あなたの血液が参加する世界、それがリアリティである。逆にいえば、あなたが呼吸しない世界、あなたの血液が参加しない世界にリアリティはない。

 詩は、リアリティで満たされる。詩は、それ以外の何ものも必要としない。

 詩には、あなたとあなたの属する世界があればよい。ただそれだけがあればよい。それ以外のものは全く不必要である。

 あなたが手に触れないものを、あなたの詩に持ち込むべきではない。あなたが呼吸する世界、ただそれだけであなたの詩は満たされるべきである。

 

 では、リアリティはどのようにして得ることができるか?

 そのためにはまず、リアリティは思考を超えたものであることが理解されるべきである。

 世界の存在に理由はない。あなたが感動する樹木は、いまあなたの目の前に立っているだけで十分である。そのいわれも、名前も余計なものだ。恋人に履歴は必要だろうか?

 恋に必要かつ決定的なものは、出遇いだ。理由はあとからいくらでもつけられる。しかし、恋の理由をうまく説明するのはむずかしい。自分が理解し、納得して恋が発生するのではなく、それは殆ど理不尽にやってくるものだからだ。決定的なものは、出遇いであり、直観である。

 

 直観は、全体を一挙につかむ能力である。世界は部分の集合ではない。世界は一なる全体である。木はあらゆる理解を超えて存在する。ぼくは流れる雲に感動する。絹雲とか、積乱雲とか、そんな名前は全くどうでもいい。いかなる名称よりも雲のたたずまいそのものがなくてはならない。それが水滴あるいは氷滴の集合体であろうとなかろうと、ただそこに本物の雲があるだけでいい。分析的能力ではなく、世界に丸ごと感応する能力こそ不可欠のものだ。

 思考を超えたものを思考で捉えることはできない。かりに、思考の限りをつくしてリアリティらしきものを作り上げても、それはリアリティとは似て非なるものである。

 観念でリアリティを生み出すことはできない。

 リアリティはあなたが参加することによってはじめてもたらされる。

 

 直観は、全体を一挙につかむ能力であるということは、この際十分に注意されてよい。

 世界は瞬間に現れる。それは一挙に捉える以外にない。リアリティは、この瞬間がすべてだ。一瞬ののちに、それを理解し、解釈しようと身構えると、もうリアリティは消え去っている。思考がしのび込む前に、鮮血の滴る状態で、世界を捉えなければならない。

 あらゆる芸術に不可欠な生命的要素、リアリティは、ただこの直観によってしか得られない。

 理解し、解釈する頭は、詩や芸術には向かない。詩や芸術はただあなたが触れたものでうめられるべきである。いいかえれば、作品は、あなた自身でなければならない。そして、あなた自身は、いかなる解釈、いかなる毀誉褒貶も本来超えたものであるはずである。

 作品に解釈は要らない。私は、そこにうっすらと滲んだ血をみれば十分である。心臓の鼓動を聞けば十分である。

 

 一人の生きている人間は解明しきれるものではない。もし解明したといっても、必ずその向こうに未知の部分が残るはずである。そして、真に重要なものはその秘めたる部分に蔵されているかもしれない。生きている一人の人間はもちろんそのすべてを持っている。それは、その限りにおいて完全なもの、全きものである。巨大な象でも、一匹のテントウ虫でも、その限りにおいては同じように完全なもの、全きものである。

 リアリティはそのようにすべてである。99パーセントのリアリティなどというものはない。リアリティは100パーセントか、0かである。たとえ、瀕死の病人であろうと、生きてある限りその人はその人の生を100パーセント生きているのである。 

 一人の生きた人間が解明できないと同じように、リアリティも解明できない。生命体が分割できないと同じように、リアリティも分割できない。

 一人の生きた人間に不可知の部分があるように、リアリティにも必ず不可知のものがある。もしも理解できるリアリティがあるとするならば、それはあなたの観念の投影にしかすぎないものであって、真のリアリティとは似て非なるものである。

 リアリティとは、このように生きている一人の人間の全体とのかかわりにおいて、はじめてリアリティといえるものである。

 一人の生きている人間を単に衣食住の世界に限定して捉えることができないように、リアリティもまた、この物質的世界に限定することは誤っている。世界を分割できないと同じように私を分割することはできないからである。

 

 リアリティをもった真の作品には、必ず不可知の、神秘の部分が存在する。そこへ入っていくためには、思考は役に立たない。ただ、裸になったあなたのシンパシーだけが、あなたをそこに導いていってくれる。

 生命が参加するところにリアリティが生まれる。

 生命が参加しないところにリアリティは生まれない。

 ここで注意すべきは、生命とは自覚的なものではない、ということである。

 ここで注意すべきは、リアリティは自覚的に得られるものではない、ということである。

 生命は、自覚によって生まれるものではない。生命はただ燃えることによって生命なのである。

 リアリティもまた、そこに在ることによってそれはリアリティなのである。

 あなたは、あなたの意志によって生まれることができないように、あなたの意志によってあなたのリアリティを作ることはできない。

 あなたは、あなたが好むと好まざるとにかかわらず、あなたの生命にいま包み込まれている。

 作品のリアリティもそのようなものだ。それは、作者の努力とはほとんど関係ないものである。

 

 奇妙に聞こえるかもしれないが、リアリティに関していえば、あなたは自覚しているときに存在しないで、自覚していないときに存在している。

 

 事物はいつでもあなたの身近にいる。だが、あなたが気がついた瞬間、事物は遠ざかる。そして、急によそよそし

くなる。

 人は、世界と合体するために眠るのだろうか?おそらく、眠りというものはそのために必要なのだ。

 人は、眠りのなかで十全に自己を開く。それは、世界をめぐる大旅行者のようだ。

 

 古代フェニキアの詩人ポルピュリオスの言葉が、いま私の考えていることを十分にいい尽くしているので代弁して

いただこう。

 ”直観は、思考を通じてよりも思考の不在を通じてはるかによく得られる。―われわれは覚醒状態のなかである程度まではそれについて語ることはできるが、しかし、それについての知識と理解とは、ただ眠りを通じてのみ得られる。―あらゆる認識の前提条件は、主体が客体と似たものになることである”

 ポルピュリオスが最大の師としたプロティノスは、

 ”太陽を見ようと思えば、目は太陽に似なければならぬ”

 といっている。プロティノスも、ポルピュリオスも、生半可な知識にくもった目を捨てよ、といっているのである。

 プロティノス全集がこの国でもようやく出たが、それは、

 ”すべての存在は、一つであることによって存在なのである。このことは第一義的な意味の存在についても、また

何らかの意味において存在のうちに数えられるものについても、みなそうなのである”

 という考え方に貫かれている。

 

 観念の鎧(よろい)を着た人は、詩の世界に一歩も近づくことはできぬ。

 あらゆる功利的な意図、生半可な知識、判断、解釈を捨てて、十全に自己を開く人に対して、詩の世界は開け放たれている。

 リアリティを得るとは、自己自身の生を得ることだといってもいい。しかし、それが容易でないことは、それが自己の意志によってではないということで、これはいままで繰り返し述べてきたとおりである。

 自己の意志も思考も放棄して世界に至るということはどういうことだろうか。

 ゲーテは、”永遠の女性に導かれて…”といった。

 つまり、私は何ものとも知れぬものに身をゆだね、導かれて、世界をめぐるのであろう。けんらんたる不可解な世

界を。

 

  スペイン中世の最も尊敬すべき詩人、十字架の聖ヨハネは、「総てにまで達するための様式」という詩で、”識らざることに到るためには識らざる所を通過せざるべからず” (アルペ、井上共訳)

 といっているが、この識らざる所を通過、する唯一の方法は、不可知の世界に対して無垢の感性を開く以外にないのではないか?意志と思考を放棄したとき、世界は一挙にあなたの方へとなだれ込んでくるのだ。

 注意すべきはこの詩のタイトルで、”総てにまで達する”とは、プロティノスの”一なる存在”となんと似ていることか。

 「総てにまで達するための様式」は、

 ”汝のあらざることにまで達するためには

  汝のあらざる所を通過せざるべからず”

 で結ばれている。

 私はこれを、ひそかに「リアリティに達するための様式」もしくは「詩に達するための様式」と置き直してみている。

 つまり、この”総て”こそ”リアリティ” であり、”一なる存在”こそ詩に不可欠のものだからである。

 

ー「詩についての断片」2(1988年10月、「舟」53号)