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詩についての断片(その一)

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(朗読:季刊同人詩誌『舟』同人 大久敬介)

 詩を書くとき、たとえば、あなたは構想を練り、細かくメモをとり、それに想いを重ね、起承転結を考え、推敲を重ねて作り上げていくだろうか。

 詩は、あなたにとって、自分の想いや考えを誰かに伝えるために、便利で、効果的な手段だろうか。

 それならば、聞きたい。同じ言葉を使った表現手段として、この国には詩以外に、短歌、俳句、小説、エッセーなどがある。それなのに、なぜ、あなたは詩という形式で書かれるのか。

 

 右の質問は、ごく初歩的なものであり、これはまだまだ細かく、深く立ち入って続けることもできる。しかし、結論からいって、この質問に明確に答えられるからといって、必ずしもよい詩が書けるというものでもないから、この程度で留めておくが、わずかにこれだけの設問と、結論のなかにも、詩の重要な鍵が含まれているので、考えてみることをおすすめする。

 また、長く詩を書き続ける人の場合、この問題が不明確のままだと、自己の自立した詩を得られずに終わってしまうことになるので、無関心ではすまされないはずである。

 結論からいって、長く詩を発表し、人にも読ませようというほどの人は、みずからの詩論をきちんと持つべきである、ということである。

 

 私のまわりには、推敲を重ねて作り上げていく人も多い。しかし、詩というものは、形を整えたからといってよくなるものではない。実用的な文章では、必要要件がきちんと相手に伝わらなければ用をなさないが、もし詩がそれだけのものならば、なんと退屈なことだろう。

 よい詩は、つねにフレッシュで、スリリングなものである。

 そこで、多くの詩人は、着想や、レトリックに腐心するようになる。しかし、その一見巧みなレトリックも、読者からみれば、内容の乏しさは一目瞭然だし、ましてそこに作者の身勝手な誇張や思い入れがあれば、読者はしらけ、それは詐欺か、物乞いのごときものになってしまう(私がどのような作品をさしていっているか、実例を想起してほしい)。

 詩は、推敲を重ねても、着想や、レトリックに腐心しても、よくなるものではない。ここで、重要な問題が出てくる。詩とは何か、という問題である。

 

 詩は人間から生まれたものである。いいかえると、詩には必ず人間がいるし、いなければならないということである。しかしこの問題は、すでにこの段階で頭でっかちの人にはとり違えられてしまうおそれがあるので、具体例を出そう。

 一人の詩人の生涯においてよくいわれることは、処女詩集がよいということである。長年書いている人には異論もあろうけれど、このことは詩の本質にいみじくも深くかかわることなので、冷静に考えてみてほしい。つまり、大体において処女詩集は、テクニックにおいて老練ではないけれど、ひたむきで、その人間が包み隠されずによく出ているということ、原稿料や、読者へのおもねりなどの打算がなく、詩へのパッションに輝いていること、こういった特徴をもっているのではないだろうか。

 よい詩は、つねにフレッシュで、スリリングといったが、それはこの処女詩集に巧まずに備わっているようなもので、作者が頭で意図的に作品にもち込めるような性質のものではないといっていい。

 よい詩は、また、よい香り、高い響き、まばゆい輝きを放っているものだが、これもまた、作者が作為的に作品にもち込めるものではないだろう。

 つまり、詩のなかの真に詩といえる核の部分は、作者のテクニックや意図のはるかに及ばない、作者の人間そのものといってよいものではなかろうか。

 その作者がしだいに薄汚れ、乏しくなるにつれて、テクニックばかりが肥大してくるのをみるのは、やり切れない。

 頭でっかちの人にはとり違えられそうなので、たまたま思いついた一例を出したが、詩において重要なのは人間そのものであるということは、詩は衣裳ではなく、裸そのものであるということにもなるのである。

 

 裸としての詩、それは何を伝達すればいいのであろうか。少なくとも、それは意味でもないし、何らかの観念でもない。詩が伝達すべきものは、究極的には生命である。

 生命を汚すもの、もろもろの観念や、打算、過剰な衣裳のペテン、それらを詩にもち込むべきではない。

 詩は、はたして伝達すべきものだろうか。裸の詩、詩そのものは、みずからを少しも誇示することなく、ただそこに在るだけでよいのではないだろうか。

 詩は、ただしかし、そこに必ずなければならない。あるとき、旅人がやってくる。飢えた旅人が…。詩は、その旅人にとっての泉のように、そこになければならない。そして、ただそれだけでよいのではないだろうか。泉が自己を装い、コケティッシュにふるまう必要があろうか。泉は、こんこんと澄んだ水をたたえているだけでよいのではないか。かりに、誰も気づかないとしても、である。

 

 伝達のための詩ではなく、存在のための詩ということは、いままで詩を単純に何かの想いや意見を伝えるための道具と思い込んでいた人には、大きな発想の転換が必要ということになってくる。

 

〔存在のための詩〕

 

 詩は人間から生まれたものである、といったが、これは今後詩を考える場合何度でも帰着する原点のようなものでもあるから、詩における人間というものをあいまいにしておくわけにはいかない。

 詩における人間は、詩を書く作者自身である。それは、誰かが代行できる人間ではない。人間に関する定義は、古来数限りなくある。しかし、そのどの借り物でもない、生きたハートを持つあなた自身である。

 これは、いいかえれば、いかなる人間の定義もあてはまらない、割り切ることのできない、分割不可能な、結局は何ものとも知れない、説明できない(かりに説明できたとしても、それはある一部分、ある一面にしかすぎない、それはまた、かえって誤解を生む)、だが、確かに何かを感じ、何かに反応している存在があることは確かである。

 詩における人間とは、このように作者自身にさえ明確には説明しがたいものであるはずである。もしも、あなたのなかに”これが人間である”という割り切れる存在があるとしたら、それは偽物であるから、その偽物が本物の詩を作ることはあり得ないから、ただちに追放することをおすすめする。しかし、人はおおむね借り物で生きる方が楽だから、それを捨てたがらないが、自分自身の詩を書きたいと思うなら、困難でも自分自身を自身の生に向かってまず開かなければならない。

 最良の詩は、この自分自身に埋め尽くされている。それは、説明も、分析もできない、リアリティそのものだ。

 借り物でない人間とは何か。それは、心臓の鼓動でわかる。明暗、寒暖の差がわかる。音が、匂いが、痛みがわかる。詩を生む人間とは、そのような人間である。

 感覚はウソをつかない。感情は付和雷同したりするが、感覚は酸っぱいものは酸っぱいとしか感じない。最初に信頼できる自分自身は、実にこの感覚である。感覚を一歩離れるとウソが生じる。

 存在の詩は、このウソを最も警戒する。ウソは詩をいびつにし、醜くする。

 ”感覚につき従って、どこまでも行け” (A・ランボオ)。

 実際、真の詩人の道は、このランボオのいった言葉以外にない。だが、ひるがえって考えれば、人は生誕から死まで、誰でもみずからの生はみずからで生きる以外にない。歯の痛みを誰かに代行してもらうわけにはいかないのだから、ランボオの示した詩人の生き方は、誰でも本来避けがたく生きているはずなのだ。しかし、また、人はつねに暗黒のなかを、皮膚をむき出しにして、生きていくわけにはいかない。そこで、もろもろの観念や、因襲に守られ、それによって勝手知ったわが家のように、この初めての一度きりの生を過ぎていくのである。もちろん、ここからは詩は生まれない。従って、このランボオの言葉はきわめて厳しく、詩人たらんとするもの(ウソを拒絶するもの、といいかえることもできよう)は、寒さにも、飢えにも、火にも、全身をさらして行け、ということにもなるのである。

 ”詩は、万人のものである”というその詩は、誰をも裏切ることのない右のような詩人の道を歩いたものにおいて、初めて可能といえるものであろう。

 

 観念や因襲を離れて、自己の感覚を全開にすること、これが詩人の第一歩である。

 感覚、それは世界に向かって開かれた窓である。

 ”名を付けるものは、敵だ”と、ル・コルビジェはいった。これは、詩人の言葉だ。詩人にとって、世界は名を付ける以前、驚異にみちみちた世界のはずである。詩人は、木と話をすることもできる。

 

 観念と因襲を離れて、感覚の窓を開け放つとき、想像力ははじめて自由の翼をもつ。

 想像力とは、詩人にとって数ある能力のうちの一つの能力ではない。想像力こそ詩人の根源的能力である。

 想像力がなければ、私たちは感覚の闇から脱出することができない。木や、虫たちと話をすることもできない。世界と交感することはできない。

 想像力=シンパシーと定義しよう。

 詩人が生きるとは、想像力を生きることだといいかえることもできる。

詩における人間とは、あらゆる観念、因襲を脱して、想像力=シンパシー=愛を生き、遂には世界と合致するもののことである、ということもできよう。そうでなければ、どうして人が真剣に詩を求めることがあろう。

 詩人は想像力に導かれ、世界を巡る。あなたは、世界のさまざまな事物に巡り合いながら、多くのことを学び、成長していく。

 詩のなかの人間とは、生きている限り成長をやめないものである。

 

 ここで一つの結論に達する。真の詩には、余計なものは何一ついらない、ということ。説明も、誇張も、さまざまなポーズも全く不要である、ということ。それらは詩を、あいまいに、不明瞭に、醜くするだけである。詩は、クリアでなければならない。それは必然的に空気を震動させ、よい響き、よい香りを放つ。

 詩は、虚偽から最も遠いものである。詩に衣裳は不必要である。詩には、ただリアリティがあればいい。リアリティとはこの場合、感覚の窓をとおして得たもので、それ以外の不純物が混じっていないものと思えばいい。

 詩には、いっさいの解釈は必要ない。ただ、共感するか、しないかだけである。ただこの場合も、詩に接する人はさまざまな観念や因襲を脱ぎ捨てて、裸になる必要がある。

 

 

―「詩についての断片」1 (1998年7月、 「舟」52号)